【原文】
今の学者は、隘(あい)に失わずして博に失い、陋(ろう)に失わずして通に失う。


【訳文】
今の学者は、学問や見識が狭いのでしくじるのではなく、かえってその広博なためにしくじるのである。その学問や見識が浅いのでしくじるのではなく、かえって万事に通達しているためにしくじるのである。


【所感】
今の学者先生は、学問が狭くて失敗するのではなく、広すぎるために失敗し、学問が浅いために失敗するのではなく、万事に通じているがために失敗するのである、と一斎先生は言います。


学識は広ければ良いというわけではなく、深ければ良いというものでもない、ということでしょう。


一斎先生もそうですが、儒学の目的は、実践にあります。


学んだことが実践されていなければ、その知識は記問の学といって、知識を詰め込むだけで、消化されて自分のものとなっていないということでしょう。


『論語』の中に、以下のような章句があります。


【原文】
子路、聞くこと有りて、未だ之を行うこと能わざれば、唯聞く有らんことを恐る。(公冶長第五)


【原文】
子路は、一つの善言を聞いて、まだそれを行うことができないうちは、更に新しい善言を聞くことを恐れた。(伊與田覺先生訳)


孔子の弟子であり、孔子塾塾頭的立場にあった子路は、普段は蛮勇に失して孔子に叱られる場面の多い、愛すべきキャラクターなのですが、実は実直な面も有していました。


それがこの言葉です。


孔子からひとつの教えを受けたならば、それを実践できるまでは、次の教えを受けることを避けたのだそうです。


この子路の態度こそ、ここで一斎先生が述べようとされたことなのではないでしょうか。


博識であることや学問の深さを誇るのではなく、徳目をいくつ実践できているかが重要なのだ、というこの箴言に目が覚める思いです。