【原文】
漢儒訓詁の伝は、宋賢心学の伝と、地頭同じからず。況んや清人考処の一派に於いてをや。真に是れ漢儒の與たいなり。諸を宋賢の為す所にくらぶるに、夐焉(けんえん)として同じからず。我が党は渠(かれ)の窠臼(かきゅう)に堕つる勿くば可なり。(與たいの「たい」及びくらべるという漢字はワープロ変換できず)


【訳文】
漢代(漢・唐)の儒者が、経書の字句の解釈によって古の聖人の精神を伝えたことと、宋代(宋・明)の賢人達が心学によって聖人の学を伝えたこととは、まったく立場が異なっている。まして、清代の考証学派に至っては、なおさらで、実に漢代儒者の卑しい召使のようなものといえる。これを宋代(宋・明)の儒者がなしたのと比較すると、はるかに隔たっている。わが党の人達が、清朝考証学の陥った弊害を繰り返すことがなければよい。


【所感】
漢・唐の時代の儒者による字句に拘った経書の解釈と、宋・明時代の儒者による性理的な経書の解釈とは、その立脚するところが異なっている。まして清の時代の考証学派においては、まったく異なったものであって、彼らはまるで漢・唐の儒者の奴隷のようなものである。彼らを宋・明の儒者と比較すれば、はるかにかけ離れて異なっている。私と学びを共にする者たちが、彼らと同じような過ちを犯すことがなければ良いのだが、と一斎先生は言います。


この時代別の儒者の傾向といったことについては、小生は大いに勉強不足であって、多くは語れません。


ただ小生は、学問として儒教を学ぼうとするのではなく、あくまで実際の仕事や生活に生かすために読みたいと思っていますので、その点でいえば、あまりに字義の解釈に拘って古典を捉えるというのは無意味なのではないでしょうか。


ただし、例えば四書五経と呼ばれる儒学の経典は、みな二千年以上も前に書かれたものばかりです。


作者や編者すら不明なこれらの古典に書かれた内容を100%正しく理解することは不可能なはずです。


例えば『論語』についても、誰か学者先生をおひとりの解釈だけで読むことは、一斎先生がご指摘される落とし穴とはまた別の穴に堕ちてしまうという恐れもあります。


その危険性を回避するには、複数の学者先生の解釈を読み、自分なりの理解をすることが重要だと思います。


そこで小生が主査する潤身読書会では、現在20冊以上の『論語』の解説書を斜め読みして、様々な解釈を併記し、参加者の皆さんとシェアしながら、実践項目に落とし込もうという努力を続けています。


その結果、時には潤身読書会独自の解釈が生まれる場合もあります。


本章の直接の解釈からは外れてしまいますが、この章を読んで、潤身読書会の進め方についても一斎先生に背中を押して頂いたと、勝手に解釈させていただこうと思います。