【原文】
大に従う者は大人と為り、小に従う者は小人と為る。今の読書人は攷拠瑣猥(こうきょさわい)を以て能事と為し、畢生(ひっせい)の事業此に止まる。又嘆ず可し。此に於いて一大人有り。将に曰わんとす、「人各々能有りて器使す可し。彼をして矻矻(こつこつ)として考察せしめて、我れ取りて之を用いば、我れは力を労せずして、而も彼も亦其の能を効(いた)して便なり」と。試に思え、大人をして己を視て以て器使一輩中の物と為さしむ。能く忸怩たる無からんや。


【訳文】
およそ人がするに際して、高くて大なる所に著眼すれば大人物となり、反対に細かく小さい所に著眼すれば小人物となる。今の読書人はわずらわしい字句の考証や細かなつまらない事をして、自分のなすべき事をなし得た如くに考えている。これでは、一生なすべき事業が、ここで止まってしまうことになる。誠に嘆ずべきことである。ここに一人の大人物がいて、その人が今の読書人に対して次のように言おうとしている。すなわち、「人には各々特有の才能を具えているからして、あたかも道具や器械がそれぞれ特殊な用途があるように、人もその能力に応じて使うことができる。それで、その人をして、その得意とする所を一生懸命に考究させて、その結果を自分が利用すれば、自分は苦労せず、その人もまたその能力を十分に発揮することができる。そうすれば、両者とも得る所があるではないか」と。試みに考えてみるがよい。他の大人物から、自分を一種の道具や器械として使用できる仲間の一人として扱われるとしたならば、学問に志す者として、恥じないでいられようか、恥ずかしい次第である。


【所感】
学問をするに際して、大所高所に目をつける人は大人物となり、細かく小さい所にしか目の届かない人は小人物となる。現代の読書家は瑣末なことをほじくり出して考証することを自分のやるべき事だと理解して満足しているので、大きな仕事ができないのである。嘆かわしいことである。ここに一人の大人物がいて、今の読書家にこのように言う、「人には各々に能力の違いがあり、その能力に応じて用いるべきである。そこで彼に苦労して考えさせて、その結果を自分が活用すれば、私自身は力を労することなく、しかも彼もその能力を発揮することができ、大いに良い結果となろう」と。考えてみよ、大人物から自分が一種の器具として利用される程度の人物だと見なされたならば、学問をする者として誠に恥じ入るべきことではないか、と一斎先生は言います。


読書したことをただ知識として蓄えるだけでなく、仕事に活用して立派な成果を残さなければ、一生を人に使われる身として終えることになり、悔いの残る人生となってしまうぞ、という一斎先生から学問をする後輩達への強烈なメッセージです。


これまでも度々、儒教とは実践の学問であって、知行合一、知ったことは即座に実行できなければ本当の知識ではないのだということを書いてきました。


この章では、一歩踏み込んで、では実践しなければどんな弊害があるのかを、具体的に説明してくれています。


男一匹、社会に出たからには、なにかしらの仕事を残したいものですよね。


多くの社会人が仕事をしながら学び続けているのは、世の中の役に立つ仕事をして、功成り名を遂げるためではないでしょうか。


そうであるなら、学問をする上で、大所高所からの視野をもって学ばねばならないのだと、一斎先生は教えてくださいます。


もちろん一斎先生もおっしゃっているように、人には各々に分際があります。


しかし、自らその分際未満の人物にしてしまっては勿体ないですよね。


以前にもご紹介しましたが、『論語』には孔子と冉求との有名な問答があります。


【原文】
冉求曰わく、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず、力足らざればなり。
子曰わく、力足らざる者は中道にして廢(はい)す。今女(なんじ)は畫(かぎ)れり。(雍也第六)


【訳文】
冉求が言った。
「先生の説かれる道を喜ばないわけではありません。ただ何分にも私の力が足りないので行うことが出来ません」
先師が言われた。
「力が足りないかどうかは、力の限り努力してみなければ分からない。力の足らない者は中途でたおれるまでのことだ。今お前は、はじめから見切りをつけてやろうとしない。それではどうにも仕方がない」(伊與田覺先生訳)


はじめから自分に見切りをつけてしまっては、結局他人から正当な評価は得られず、人に甘んじて使われることになってしまうでしょう。


自分の分際を尽くして生きたいものです。