【原文】
刀槊(とうさく)の技、怯心(きょうしん)を懐く者は衄(じく)し、勇気を頼む者は敗る。必ずや勇怯を一静に泯(ほろぼ)し、勝負を一動に忘れ、之を動かすに天を以てして、廓然太公(かくぜんたいこう)なり。之を静にするに地を以てして、物来り順応す。是の如き者は勝つ。心学も亦此に外ならず。


【訳文】
剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、自然のままに動き、わだかまりなく実に公明正大である。静なるは、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。


【所感】
剣術や槍術の試合では、臆病な心を持つ者は敗れ、勇気だけを頼りにする者も敗れるものだ。必ず勇気や恐怖心を心の静けさの中に消し去り、勝敗を動きの中で忘れ去り、天意のままに動き、心にわだかまりがなく公明正大であるべきだ。心を静なる状態にするときは、まるで大地が静寂不動であるかのようにして、ひとたび物が来ればこれに順応する。この様にする者は必ず勝つ。心を修養する学問もこれと同じである、と一斎先生は言います。


この言葉は、程明道先生の『定性書』にある以下の言葉が下敷きになっているようです。


君子の学は廓然として太公、物来たりて順応するに若くはなし


「廓然」とは、心が広くわだかまりがないこと、「太公」とは私心がなく公正なことです。


立派な人の学問というものは、すこしも私というものがなく常にゆったりとしていて、相手に応じて最善の行動を取るということのようです。


つまりは動静どちらか一方に偏るのではなく、まるで天地自然のように変幻自在にわが心を外物に対応させるということでしょう。


一斎先生はこれを武道の試合に喩えて説明をされています。


天地の心は万物に具わっており、当然人間すなわち私にも具わっている。


したがって我が心の持ち様は、武道であっても学問であっても同様で、外物とわが心を区別せず、 天地自然に委ねるように対処すればよい。


非常に哲学的ですが、本章はこのような趣旨ではないかと思われます。


これを仕事に応用すれば、


無理に心を落ち着けようとするのでもなく、また外の出来事に一喜一憂するのでもなく、ただ自分がやるべき事に全力を尽くせばよい


ということになるでしょう。


これはいくら技術を磨いても達し得ない境地です。


心を磨くしかありません。