【原文】
兵家は心胆を錬ることを説く。震艮の工夫と髣髴(ほうふつ)たり。


【訳文】
兵法家や武人は、肝だまを鍛錬することを説いている。これは震艮(しんこん)(動静両面)の工夫とよく似ている。


【所感】
兵法家は肝玉を鍛錬することを説いている。このことは震艮の工夫を思い起こさせるものだ、と一斎先生は言います。


安岡正篤先生の言葉に


知識・見識・胆識


という言葉があります。


安岡先生の高弟であられる山口勝朗さんの『安岡正篤に学ぶ人間学』(致知出版社刊)にはこの言葉の解説が以下のように簡潔にまとめられています。


知識とは理解と記憶力の問題で、本を読んだり、お話を聞いたりすれば知ることのできる大脳皮質の作用によるものです。

知識は、その人の人格や体験あるいは直観を通じて見識となります。

見識は現実の複雑な事態に直面した場合、いかに判断するかという判断力の問題だと思います。

胆識は肝っ玉を伴った実践的判断力とでも言うべきものです。困難な現実の事態にぶつかった場合、あらゆる抵抗を排除して、断乎として自分の所信を実践に移していく力が胆識ではないかと思います。


つまり、逆境に打ち克つためには胆識を持たなければいけないということです。


命を懸けて戦う兵法家や武人にとっては、いざという時に備えて胆識を養っておく必要があったのでしょう。


安岡先生は、これに関して以下のような言葉を残されております。


今、名士と言われる人達は、みな知識人なのだけれども、どうも見識を持った人が少ない。また見識を持った人は時折りあるが、胆識の士に至ってはまことに塞々たるものです。 これが現代日本の大きな悩みの一つであります。


震艮の工夫とは、動と静の工夫ということのようです。


『孫子』 にある言葉、


疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し。


とはまさにこのことでしょう。


我々も命まで獲られることはないとしても、企業間競争という名の戦争を繰り広げています。


平時には静かな心を保ち、万が一のときには慌てることなく、一気に行動を開始できるよう、胆識を養わねばならないのは同じですね。