【原文】
王荊公(けいこう)の本意は、其の君を堯舜となすに在り。而も其の為す所皆功利に在れば、則ち群宵(ぐんしょう)旨を希(ねが)い、競いて利を以て進み、遂に一敗して終を保つ能わず。究(つい)に亦自ら取る。惜しむ可し。後の輔相(ほしょう)たる者宜しく鑑みるべき所なり。


【訳文】
政治家王安石の本心は、その君主(神宗)を堯舜のような立派な聖天子にしようとするにあった。しかし、その為す所は総て功名利欲にあったがために、多くの小人達は彼の趣旨をこい願い、専ら利に進み、そのために遂に失敗して終りを全うすることができず、とうとう責任をとって地位を去ってしまった。誠におしいことである。後の世の宰相や大臣たる地位にある者は、この失敗の先例に照らしてよく考え心売るべきである。


【所感】
宋の王安石の本心は、自分の君主を堯や舜のような立派な君子にしようとするところにあった。然し、その為す所は全て功名利欲にあったので、群小の人物達は彼に迎合し、互いに利得を争ったために、最後には失敗し、終わりをまっとうできなかった。これは自ら招いたことで惜しむべきことである。後世の大臣や宰相はよくこのことを鑑みておくべきである、と一斎先生は言います。


高い志を抱いても、実際の行動が伴わなければ、その志を成し遂げることはできないということでしょう。


王安石という人は、いわゆる改革派のひとりで、法律を一気に改めて守旧派と大論争を展開した挙句に、敵に担がれた皇太后の策略によって失脚してしまった人物なのだそうです。


人の上に立つ人はある程度独裁的・独断的でなければなりません。しかし、そこに私欲が絡むと専制的となり、足元をすくわれることになるのでしょう。


川渕三郎氏が言っている、


私欲のない独裁者、それがリーダーの条件だ 


という言葉は、言い得て妙ではないでしょうか。


私欲のない人物とはよく水に譬えられます。


『老子』の有名な章句に、


上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に居る。故に道に畿(ちか)し。


とあります。


水は万物に恩恵を与えながら、相手に逆らわず、人の嫌がる低い所へと流れていく。だから道のあり方に近いのである。


という意味です。


しかも水は清濁併せ呑む度量ももっています。


リーダーたる者は、水の如く私欲を消し去り、強い独裁力でメンバーを導いていかなけれならないのです。