【原文】
気運には常変有り。常は是れ変の漸(ぜん)にして痕迹(こんせき)を見ず。故に之を常と謂う。変は是れ漸の極にして痕迹を見る。故に之を変と謂う。春秋の如きは是れ常、夏冬の如きは是れ変。其の漸と極とを以てなり。人事の常変も亦気運の常変に係れり。故に変革の時に当たれば、天人斉しく変ず。大賢の世に出ずる有れば、必ず又大奸の世に出ずる有り。其の変を以てなり。常漸の時は則ち人に於いても亦大賢奸無し。


【訳文】
気運には常と変とがある。常は徐々に変化するから跡形を見ない。それでこれを常という。変は徐々に変化して極に至ったもので、これには跡形がある。それでこれを変という。春と秋とは徐々に変化していくので常であり、夏と冬とは変化が極に達するもので変である。人事についても、気運の常・変と関連している。それで変革の時には、天も人も同じく変化する。大賢人が世に出ることがあり、大悪人が世に出ることもある。これは変である。徐徐に変化していく時には、人間界にも大賢人や大悪人なども出現しない。


【所感】
気運には常と変とがある。常は徐々に変化していくので痕跡がない。よって常という。変は徐々に変化したものが極に達したもので痕跡がある。よってこれを変という。例えば、春と秋は徐々に変化するので常、夏と冬は変化が極に達するものであり変である。人事に関しても、この気運の常変は同じである。だから変革の時には天も人も共に変化する。大賢人が世に出ることもあれば、また大悪人が出現することもある。これは即ち変である。少しずつ変化して行く時は、人の世に大賢も大奸も現れないものだ、と一斎先生は言います。


諸行無常


という言葉があります。


ご承知のとおり、この世のものはすべて変化し続けている、という意味です。


したがって、「常」と呼ぶ状態であっても、実は少しずつ変わり続けているのだ、と一斎先生は教えています。


そしてその変化が極まったとき、大きな変化が起こります。それを「変」と読んでいるようです。


考えてみれば、何事もない平凡な日常の中でも、私たち人間の身体の衰えは確実に進んでおり、確実に死へと近づいているのです。


例えば大病などもその小さな衰えの極まりだとみることができそうです。


興味深いのは、人の出現も同じだと捉えておられる点でしょう。


そう考えてみれば、春秋末期、周の礼制度が乱れきった世の中に孔子という聖人が出現したのも、偶然ではないのでしょう。


ところで小生には、現在の我が国もかなり変が極まった時代だと思えるのですが、まだ大賢人は出現していないようです。


しかしながら、きっと若き政治家の中にこの日本を救う大賢人がいるのだと期待したいものですね。