【原文】
「大人に説くには則ち藐(かろ)んぜよ。其の蘶蘶(ぎぎ)然たるを視ること勿れ」。視ること勿れとは心に在り。目は則ち熟視するも妨げず。


【訳文】
「高貴な人に対して自分の意見を述べる場合には、相手を軽く見てかかるがよい。先方の高貴な身分であることを気にするな(視るなかれ)」。これは孟子の言葉であるが、「視るなかれ」ということは心で視るなということであって、自分の目は先方をよく視てもかまわないというのである。


【所感】
『孟子』尽心下篇に「大人に説くには則ち藐(かろ)んぜよ。其の蘶蘶(ぎぎ)然たるを視ること勿れ」とある。この場合の視ること勿れというのは、心の持ち様を言っているであって、目は相手を凝視しても構わないのだ、と一斎先生は言います。


早速、『孟子』尽心下篇の該当部分をみてみます。


【原文】
孟子曰く、「大人に説くには則ち之を藐(かろ)んぜよ。其の蘶蘶(ぎぎ)然たるを視ること勿れ。堂の高さ數仞(すうじん)、榱題(しだい)數尺。我志を得るも爲さざるなり。食前方丈(しょくぜんほうじょう)、侍妾(じせん)數百人。我志を得るも爲さざるなり。般樂して酒を飲み、驅騁田獵(くていでんりょう)し、後車千乗(こうしゃせんじょう)。我志を得るも爲さざるなり。彼に在る者は、皆我が爲さざる所なり。我に在る者は、皆古(いにしえ)の制なり。吾何ぞ彼を畏れんや」


【訳文】
孟子のことば「尊貴の人に自分の意見を述べようとするときは、相手を軽くみてかかれ。その人の蘶蘶然として富貴な様子を眼中に置くな。彼らの富貴は、たとえば、宮殿の高さが数仞もあり、たる木の頭は数尺もあるだろうが、自分は志を得てやればやれるときでも、そんなまねはせぬ。また、ごちそうを前に一丈四方も並べ、侍女は数百人もいるだろうが、自分は志を得てもそんなまねはせぬ。また大いに楽しんで酒を飲み、車馬を走らせて狩猟を催し、あとには千台もの車を従える、とうようなことは、自分は志を得てもしようとせぬものだ。かの尊貴の人の下にあるものは、すべて自分はまねようと思わぬことであり、自分に有するものは、すべていにしえの聖人の定めた礼である。してみれば、自分の有するものは、彼の有するものよりも、はるかに貴重なものである。自分はなんで彼を恐れはばかることがあろうか」(宇野精一先生訳)


いかにも孟子らしい言葉であり、態度です。


要するに、自分が目指すものは富貴ではなく、古の聖人が求めたものであって、本当に徳が高いのは自分の方である、ということを述べているのでしょう。


一切の悩みは比較より生ずる


とは、森信三先生の至言ですが、比較しないで生きるということは、相当に心を磨かないとできないことです。


小生はかつてはそこそこ名の知れた企業に在籍していました。


そこでパワハラ問題を起した際、名の知れた会社から無名の会社へ籍を遷すことに、当初は悩みました。


しかし、その当時は既に本当の学びを始めていましたので、社外に多くの共に学ぶ友人が居ました。


彼らの多くは、起業していたり、あるいは小さな会社に居ても非常にプライドを持って仕事をしていました。


そんな彼らを知っていたからこそ、会社を変わる決意ができたのです。


今はその選択が正しかったと思えるようになりました。


人間の偉さはその人の知名度と比例するわけではない様に、会社の存在意義も会社の大小とは関係のないものです。


本当に大切なものは、人間であれば志、会社であれば理念です。


小生は、そんなことを挫折から学ぶことができました。