【原文】
爾(なんじ)の霊亀(れいき)を舎(す)て、我れを観て頤(おとがい)を朶(た)る。 霊亀は舎つ可からず。凡そ諸(これ)を外に顗(うかが)う者は、皆朶頤(だい)の観なり。


【訳文】
『易経』に「自分の持っている徳を捨てて、物欲しそうな状(さま)をするのは凶である」とある。自分の徳を捨ててはいけない。徳を他に求めるのは、下あごを垂れ動かして物を欲しがる状態を現わすものである。


【所感】
『易経』の山雷頤(さんらいい)の卦の初九爻に「爾(なんじ)の霊亀(れいき)を舎(す)て、我れを観て頤(おとがい)を朶(た)る。凶なり」とある。霊亀は捨ててはいけない。自分の外部に物を求める者は、下顎をだらしなく垂らしているようなものだ、と一斎先生は言います。


出典である『易経』の内容自体が難解ですので、理解の難しい章です。


霊亀とは霊妙な徳をもった亀を指します。


亀は万年といわれるように、亀という生き物は決して食を貪らず、永く生きながらえることができます。


本来、人間にもこの霊亀のような徳が具わっているのに、それを発揮せずにだらしなく下顎を垂らして口を空けているような状態であることは、凶つまり非常によろしくない状態である、という意味でしょう。


儒教で繰り返し説かれるのは、人間は本来、徳を有して生れてくるということです。


だから、徳を身につけるという表現は不適切で、実際には自分の中にある徳を最大限に発揮できるようにすることが修養だとしています。


書物を読むなど、学問をする目的もそこにあるのであって、書物から何かを吸収するというよりも、書物の光に照らして自分の中にある徳を発見するために読書をするわけです。


くだらない無い物ねだりをするのではなく、自分の中にある霊亀の徳を磨き上げなさい、と一斎先生は言っているのでしょう。