【原文】
天道は窮尽(きゅうじん)すること無し。故に義理も窮尽すること無し。義理は窮尽すること無し。故に此の学も窮尽すること無し。「堯舜の上、善尽くる無し」とは、此(これ)を謂うなり。


【訳文】
自然の道には窮まり尽きるということがなく無限である。それで、人のふみ行なう道にも窮まり尽きる所がない。人のふみ行なう道が窮まり尽き果てる所がないから、これを究明しようとする学問にも窮まり尽きる所がない。明代の大儒王陽明がいった「堯舜の上、善尽きること無し」(聖人堯・舜が善行をなしたが、善は無限である)とは、このことを言ったものである。


【所感】
天の道は極まることなく永遠に続いている。それ故に、人が実践すべき正しい道理もまた尽きることはあり得ない。そして、義理が尽きないということはすなわち、学問(儒学)も極め尽くすことなどできないものである。だからこそ学び続ける必要があるのだ。王陽明の言葉「堯舜の上、善尽くる無し」(伝説の皇帝堯と舜は善政を敷いたが、それでも善が極まり尽きることはなかった)もまた、こうしたことを言っているのだ、と一斎先生は言います。


人は天地の産物ですので、天の道が無窮であれば、人の道(正しい考え方と行い)もまた無窮なはずであり、人の道を手に入れるための学問もやはり無窮なのだ、と一斎先生は言っているのでしょう。


昨日の章句に、


講学は則ち当に足らざるを知るべし


とありました。


なぜ学問においては常に不足を思うのかといえば、義や善といった人間の徳性はここまで来ればOKというゴールがないからです。


つまり、学べば学ぶだけ徳を深めていくことができるのです。


小生は営業部門のマネジメントをしています。


そもそもパワハラ上司からのリスタートを切っていますので、もちろん現状の自分のマネジメントには満足などしていません。


不徳のマネジメントから有徳のマネジメントへと、自身のマネジメントスタイルの根本的な変換を図っている真っ只中に身をおいています。


まさに無窮のゴールを目指して走り続けているのです。


人間学を学び、それを実際の仕事やマネジメントで実践して、結果を評価し反省を加えて、また次の学びと実践につなげていく。


死ぬまで続く飽くなき探求がそこにあります。