【原文】
真偽は誣(し)う可からず。虚実は欺く可からず。邪正は瞞(だま)す可からず。


【訳文】
真を偽としたり偽を真としたりすることはできない。うそと誠は欺くことはできない。なお、邪と正とはだますことはできない。


【所感】
本物か偽物かをないがしろにしてはいけない。事実と作り事を混同してはいけない。正しいことと邪なことを誤魔化してはいけない、と一斎先生は言います。


思い切って意訳してみましたが、この章句の意味はよくわかりません。


偽物にだまされるな、嘘を言うな、邪な心を抱くな、という忠告なのでしょうか?


あるいは、本物と偽物、真実と嘘、正しいことと間違ったことをしっかり明弁できるように鍛錬しなさい、というメッセージなのでしょうか? 


ここでは、本物と偽物の見分け方について考えてみることにします。


森信三先生は、『修身教授録』のなかでこう言っています。


すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。同様にわれわれ人間も、平生それほど違うとも思われなくても、いざ出処進退の問題となると、平生見えなかったその人の真価が、まったくむき出しになってくるのです。先に私は、出処進退における醜さは、その人の平素の勤めぶりまで汚すことになると申しましたが、実は、出処進退が正しく見事であるということは、その人の平生の態度が、清く正しくなければできないことなのです。


本物の大人物であれば昇格や昇給に一喜一憂することもなければ、引き際も美しくさりげなく去っていくものだということでしょう。


ところで、引き際の問題は早く辞めれば美しいというものでもありません。


かつて王貞治選手は本塁打を38本も打っていながら、自分の理想とする本塁打が打てなくなったといって引退しました。


メジャーリーグの快速投手ノーラン・ライアン選手も160kmのストレートが投げられなくなったという理由で引退しています。


そもそもほとんどの打者は38本も本塁打を打てませんし、ほとんどの投手は160kmのストレートを投げることはできません。


普通の感覚であれば、まだできるのにもったいないと思うところですが、この二人の野球人にとっては、美しい弾道を描く本塁打や160kmのストレートこそが自分が野球人であるための証だったのです。


本物であり続けるためには、仕事をしていく上で自分が最も大切にしていること、つまり自分が秘かに抱いている矜持、それが維持できなくなったとき、自ら仕事人とての人生を終えなければいけないのでしょう。