【原文】
気象を理会するは、便ち是れ克己の工夫なり。語黙動止(ごもくどうし)、都(すべ)て篤厚なるを要し、和平なるを要し、舒緩(じょかん)なるを要す。粗暴なること勿れ。激烈なること勿れ。急速なること勿れ。


【訳文】
自分の気性を理解することは、これすなわち自己にうち克つ工夫である。語ることも黙ることも動くことも止まることも、総て親切で手厚くあり、おとなしくて穏やかであり、ゆるやかでゆったりしておらなければいけない。あらあらしくしてはいけないし、極めて激しくしてもいけないし、気ぜわしくしてもいけない。


【所感】
自分の気質を把握することは、そのまま克己の工夫へとつながる。語ること黙ること、動くこと止まること、すべてにおいて人情に厚く誠実で、落ち着いて穏やかで、ゆるやかでゆったりとしていることが重要である。荒々しく、激しく、せかせかしているようではいけない、と一斎先生は言います。


なかなか耳の痛い章句です。


小生の場合、まさに語黙動止すべてにおいて、一斎先生が駄目だと指摘されている粗暴で激烈で急速です。


篤厚・和平・、いずれも小生にはハードルの高い心の在り方ですが、特に篤厚とうのは、高い人間力を有していないと発揮できないのではないでしょうか。


ここに関連して、森信三先生は『修身教授録』のなかで、以下のようなことを述べています。


本当に偉い方というものは、そうみだりに声を荒げて、生徒や門弟を叱られるものではないのです。

大声で生徒を叱らねばならぬということは、それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠です。つまりその先生が、真に偉大な人格であったならば、何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります。 

実際偉大な先生の、その弟子に対する深い思いやりとか慈悲心が、しだいに相手に分かりかけてくれば、叱るなどということは、まったく問題ではなくなるでしょう。 

優れた師匠というものは、常にその門弟の人々を、共に道を歩む者として扱って、決して相手を見下すということをしないものであります。 

ただ同じ道を、数歩遅れてくる者という考えが、その根本にあるだけです。

そもそも人間というものは、その人が偉くなるほど、しだいに自分の愚かさに気付くと共に、他の人の真価がしだいに分かってくるものであります。

そして人間各自、その心の底には、それぞれ一箇の「天真」を宿していることが分かってくるのであります。 

易には「至剛而至柔」という言葉がありますが、実際至柔なる魂にして、初めて真に至剛なるを得るのでありましょう。


すぐに声を荒げて社員さんを叱る小生のような人間は、森先生の言葉を借りれば、貫禄つまり篤厚が足りないからだ、ということになります。


あらためて、ここに挙げられた篤厚・和平・緩という三つの心の在り方を意識しなければいけないことに気づかせていただきました。