【原文】
主宰より之を理と謂い、流行より之を気と謂う。主宰無ければ流行する能わず。流行して然る後其の主宰を見る。二に非ざるなり。学者輒(もっぱ)ら分別に過ぎ、支離の病を免れず。


【訳文】
万物を支配する面からすれば、これを理といい、万物が生成し流用する面からすれば、これを気という。ところで、主宰と流行の関係であるが、主宰が無ければ流行することもできないし、流行があるので主宰のあることが知られる。主宰と流行、理と気とは二つであるのではない。しかるに、学者には専らこれを分けてしまって、離ればなれに見る間違った考えの者がいる。


【所感
万物を主宰しているという観点からすれば、これを理といい、万物が生成し流行しているという観点からすれば、これを気という。主宰がなければ流行することはできず、流行してはじめて主宰があることを知る。これらは二つのようで二つではない。学者はどうしても分別をしようとし過ぎて、かえって物事を難しくとらえる傾向を免れない、と一斎先生は言います。


久しぶりに理と気について触れられていますので、少し整理しておきます。


以下、小倉紀蔵氏の『入門 朱子学と陽明学』から理と気についての解説を引用します。


理とは、宇宙・世界・国家・社会・共同体・家族・自己を貫通する物理的・生理的・倫理的・論理的法則である。この世のすべては素材としては気でなりたっているのだが、その素材の動態に自然的な秩序を与え、全体と部分に対して同時に完全な調和を与える法則が、理なのである。

理は気ではないから、物質性からは完全に切り離されている。

気は単なる物質ではなく、バイタルな生命力を有した物質である。

すべては気である。花も、人も、雲も、机も、鬼神も、すべては気なのである。

理がなければもの・ことはない。もの・ことは気だけでは成り立つことができず、理があって初めて成り立つ。


理と気について、なんとなく概要を把握できたでしょうか?


一斎先生がいう、主宰と流行については、川上正光先生がわかりやすい解説をしています。


水あるが故に波あり、波あるをもって水を知るようなものである。


つまり、この場合の水が理であり、波が気に当たります。


水と波が切り離せないように、理の主宰と気の流行も切り離すことはできません。


ところが、なにかと学者先生は、物事を分けて考える癖があって、かえって物事を難しくしてしまうので、気をつけねばならないのだ、と一斎先生は言います。


これは、マネジメントする際にも参考になります。


マネージャーの中には、現象(流行または気)だけに目がいって、本質的な課題(主宰または理)に気づかない人がいます。


たとえば、売上計画を達成できないという時の問題点として、案件数(引合量)が少ないことを挙げる人がいます。(残念ながら、前職・現職を通して、こういう人はかなり多くいます)


しかし、案件の数が少ないのは、現象に過ぎません。


なぜ案件量が少ないのかを掘り下げれば、たとえばそもそもアポイントの数が少ないことがわかり、なぜアポイントの数が少ないのかを探ると、アポイントを取るためのトークやスキルに問題があることがわかってきます。


ここまでくると、具体的にアポイントを取るためのトークを錬ったり、スキルを磨くということが出来ますので、効果が期待できるわけです。


案件が少ないから増やしましょう、では売上は決して伸びません。


このように考えてみると、理の主宰、気の運用について思索することは、多くの事に応用が効くのではないでしょうか。