【原文】
時として本体ならざるは無く、処として工夫ならざるは無し。工夫と本体は一項に帰す。


【訳文】
いかなる時でも本体の現われで無いものは無く、またどんな処でも工夫(作用・働き)で無いものは無い。それで、本体と工夫(体と用)とは、結局一つのものに帰することになる。


【所感】
どんなときでも本体の発揮でないものはなく、どんな場所でも工夫できないことはない。このように工夫と本体とはひとつのものに帰するのだ、と一斎先生は言います。


第846日のところで取り上げましたが、『日本思想体系』によりますと、「本体」というのは、本然の性であり、心における理であり、また良知であり、要するに人間の生来の道徳的本性であるとしています。


また、「工夫」とは、それをきわめ、あるいは発揮するための修養方法で、学問、読書、静坐などあらゆる形式を含む、としています。


ここも難解ですが、以下のように解釈しておきます。


どんな状況にあっても、道徳的本性を失わないように努めることは可能であり、どんな場所にあっても、常に修養のための方法はあるものだ。


つまり、時と場所によって心が惑わされるようではまだまだ修行が足りない、つねに修養を心がけて、道徳的本性を保つことを鍛錬せよ、というメッセージだと捉えておきます。


人の真価は緊急時の対処方法や言動で判断できます。


日頃は格好の良いことを言っている人が、窮地に追い込まれると途端に慌てたり、暴言を吐いたりするのを見るのは寂しいものです。


その点、孔子という人は、窮地にあってもどっしりと腹が据わっていました。


【原文】
子曰わく、天、徳を予(われ)に生(な)せり、桓魅(かんたい)それ予を如何(いか)にせん。(述而第七)


【訳文】
先師が言われた。
「天は私に徳を授けられている。桓魅ごときが私をどうすることもできないだろう」(伊與田覺先生訳)


これは、『史記』「孔子世家」にあるエピソードです。


孔子は曹を立ち去り、宋という国に向かいます。その途中で大きな木の下で弟子達に礼の練習をさせていると、宋の軍務大臣である桓魋が孔子を殺そうとして、その樹を根こそぎにします。身の危険を感じた弟子達が「急いで立ち去りましょう!」と言ったとき、孔子が言ったのがこの言葉なのだそうです。


これぞ泰然自若の意志と言えるのではないでしょうか。


孔子という人は単なる文人ではなく、日頃から胆識も磨き上げていたのです。


多くのお弟子さんがついたのも、こうしたところに理由があったのかも知れません。


どんなときでも言行一致の人を目指しましょう。