【原文】
視るに目を以てすれば則ち暗く、視るに心を以てすれば則ち明なり。聴くに耳を以てすれば則ち惑い、聴くに心を以てすれば則ち聡なり。言動も亦同一の理なり。


【訳文】
ただ目だけで物を見ると、物の真相はわからないが、心をもって見ると、物の実相が明らかに見られる。また、ただ耳だけで物を聞くと、物の真相はわかりかねるが、心をもって聞くと、物の実相がよく聞きとれる。言葉や動作についても道理は同じである。


【所感】
ものを見るときに目だけでみようとすれば、ものの真相はつかめないが、心をもって観れば、真相をつかむことができる。耳だけで聞こうとすれば、かえって迷うが、心をもって聴けば、聡ることができる。言動もこれと同じ道理である、と一斎先生は言います。


心の眼、心の耳を活用せよ、というメッセージです。


孔子は人物鑑定の方法として以下のようなことを述べています。


【原文】
子曰わく、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察(み)れば、人焉んぞ廋(かく)さんや。人焉んぞ廋(かく)さんや。(為政第二)


【訳文】
先師が言われた。
「その人が何をしているのか、その人が何によって行っているのか、そしてその人がどこに安らぎを持っているのか。そういうことを観察すれば、人のねうちはわかるものだ。従って自分をかくそうと思っても、決してかくせるものではない」(伊與田覺先生訳)


視 → 観 →  察 と矢印の方向に進むほど、「みる」ことが深くなります。


察とは、その行動の目的は何かを探ることです。


アドラーは、目的論をとなえ、その人の行動の目的を考えよ、と言います。


たとえば、ある出来事が起こってやる気がなくなったという人がいた場合、原因論であれば、その出来事が原因でやる気を無くしたという因果関係でとらえますが、目的論では、ある出来事を期に自らやる気を無くそうと決めたから、やる気が無いのだ、という捉え方になります。


つまり、やる気を無くしたいから、その出来事をその理由にしただけだ、という考え方です。


きくことも同じでしょう。


あえて三段論法でいえば、


聞 → 聴 → 観 となるだろうと、小生は考えます。


観というのはきくことではないだろう、と感じる方もいらっしゃるかも知れません。


先日、ある勉強会にて、僧籍をもっている友人からこんな話しを聞きました。 


観音様というのは、観世音菩薩様のことで、音を観る菩薩様です。


観世音とは、「心で自由自在に世の中の音を観る仏」だと言われているのです。


清水寺のホームページには、これに関連して、観音様の心は以下の5つであると記載されています。


1.真実を求め真理を愛する心、真観。
2.清く澄んだ、私利私欲に走らず、利他を重んずる心、清浄観。
3.あらゆるものを平等に観ずる心、広大智慧観。
4.他の苦しみを自らの苦しみとして共感できる心、悲観。
5.他の楽しみ、喜びを共に観じられる心、慈観。


他人にしても、物事にしても、表面的・一面的にとらえるのではなく、心の眼、心の耳をもって、内面的・多面的に観察することが大切だということでしょう。


人の痛みや苦しみを観ることができる人になりたいですね。