【原文】
耳の職は事を内に納(い)れ、目の職は物を外に照らす。人の常語に聡明と曰い聞見(ぶんけん)と曰う。耳の目に先だつこと知る可し。両者或いは兼ぬることを得ずば、寧ろ瞽(こ)なりとも聾なること勿れ。
【訳文】
耳の役目は外界の事物を内に入れることであるし、目の役目は事物を体の外において照らし合わせることである。人がいつもいう言葉に聡明(耳目が鋭敏なる)といい聞見(耳で聞き、目で見る)ということがある。これから考えても耳の方が目よりも先に立っていることがわかるであろう。聡と明の両者を兼ねることができないならば、むしろ目が不自由になっても、耳が不自由になってはいけない。
【所感】
耳の役割は事物を自分の内側に取り込むことであり、目の役割は事物を外に照らし出すことである。人がよく使う言葉に、「聡明」とか「聞見」という言葉がある。ここからも目より先に耳を使うべきことがわかるだろう。もし、両方の役割を発揮することができないならば、目が不自由になっても、耳が不自由になることがないようにすべきである、と一斎先生は言います。
昨日も記載したように、心で自由自在に世の中の音を観るためには、事物の真実の音を取り込まねばなりません。
そのためには、耳の役割が極めて重要だと一斎先生は言います。
たしかに目から入る情報量と耳から入る情報量では、大きな差があるように思います。
たとえば、誰かの言葉を文字にしたものをただ読むのと、その言葉を直接聞くのとでは、後者の方が声のトーンや調子、スピードなどから微妙なニュアンスや真意を感じ取ることができます。
一方、
百聞は一見に如かず
という言葉もあります。
この場合の「聞」はうわさ話を聞くという程度の意味になるのでしょう。
要するに、
自分の耳で聞いていないことを信じるよりは、自分の目で見たものを信じよ。
自分の目でみたものを信じるよりは、自分の耳で直接聞いたものを信じよ。
という教えだと理解して良いのではないでしょうか。
ところで現代では「聞見」ではなく「見聞」と言うようになっています。
このことからも、現代は耳より目が重視される時代になってしまったことがわかりますね。