【原文】
能く疑似を弁ずるを聡明と為す。事物の疑似は猶お弁ず可し。得失の疑似は弁じ難し。得失の疑似は猶お弁ず可し。心術の疑似は尤も弁じ難し。唯だ能く自ら霊光を提して以て之を反照すれば、則ち外物も亦其の形を逃るる所無く、明明白白、自他一様なり。是れ之を真の聡明と謂う。


【訳文】
よく似てまぎらわしいものを弁別することを聡明(賢明)であるといっている。事物のまぎらわしいのは、まだ弁別することはできようが、利害損得のまぎらわしいのものは、なかなか弁別し難い。しかし利害損得のまぎらわしいのは何とか処理できようが、心の働き(心だて)のまぎらわしいのは、最も弁別しにくいものである。ただ、霊妙な心の光をもって、これを照らしかえすならば、外物(名利などの欲念)も逃すことなく、はっきりと自他(自分と他物)共に同じく弁別できる。これを真の聡明というのである。


【所感】
紛らわしくて判別しづらいものを弁別することを聡明という。事物の紛らわしいものは弁別することが可能である。当を得ているか否かを弁別することは難しい。それでも当を得ているか否かはなんとか弁別可能であるが、心のはたらきの是非を弁別することは究めて難しい。ただ自身の霊妙な心の光で照らしてみれば、外から入ってくる名利の念や欲望などは、その本性を現さざるを得ず、すべて明白に、自分と他者とを一致させることができる。これを本当の聡明というのだ、と一斎先生は言います。


自分にとっての損得を見分けることは、物事の是非を見分けることよりも難しく、人の心を見分けることは更に難しい。


しかし、修養によって生まれたときに授かった真の心のはたらきを取り戻したならば、他者の心を正しく観ることも不可能なことではない、と一斎先生は考えていたようです。


この章句も陽明学でいう「良知を致す」ことの重要性を説いたものといえそうです。


自分の心に欲念が宿っているから、他人や事物の真の姿を見誤るのではないでしょうか。


利欲にとらわれない、ありのままの純粋な心で人や物事を視るならば、まやかしや詐称などの行為は自然と露呈するはずです。


この章句から小生が学び取ったのは、まずは自分自身の利欲にとらわれない心を作り上げることが先決だということです。


小生が毎日『論語』を読んできて、最近確信を得ていることがあります。


それは、


『論語』の血液ともいえる「仁」とは、無償の愛を人に施すことである 


ということです。


無償の愛には利欲を思う気持ちは微塵もありません。


だからこそ、相手に響き、相手の心を打つのです。


家庭でも職場でも、見返りを求めない無償の愛を施すことを意識していきます。