【原文】
寒暑の節候、稍暦本と差錯(ささく)すれば、人其の不順を訴う。我れの言行、毎(つね)に差錯有るも、自ら咎むるを知らず。何ぞ其れ思わざるの甚だしき。


【訳文】
寒さ暑さの時候が少しでも暦と違うと、人々は気候の順調でないことを訴えて何かと不平をいうものである。しかるに、自分の言葉と行動にいつも間違いがあっても、自ら反省して咎めることを知らないでいる。何とはなはだしく考えの無いことではないか。


【所感】
寒暑の時節時候が暦と少し違うだけで人は天候の不順さを訴える。一方、私の言行にはいつもズレがあるが、それを自ら咎めることをしていない。なんとはなはだしく考えの足りないことではないか、と一斎先生は言います。


これは耳の痛いご指摘です。


人間とはとかく自分の事は棚に上げて、周囲のことや他人のことを批判します。


天候などその際たるもので、夏になれば「暑い、暑い」と騒ぎ、冬になると「寒い、寒い」と騒ぎ立てます。


森信三先生は『修身教授録』の中で、こう述べています。


精神的な鍛錬というものは、肉体的なものを足場にしてでないと、本当には入りにくいもんなのです。たとえば精神的な忍耐力は、肉体上の忍耐力を足場として、初めて真に身につくものです。さればこそ、寒暑を気にしないということが、やがては順境逆境が問題とならなくなるわけです。

武道や体操を得意とする人は、むしろ道場や運動場以外のところで、より精神的な緊張を持しているようでないといけないと思うのです。それができないようでは、いかに技はうまくても、要するに一個の軽業師にすぎないでしょう。

つまり高僧と凡僧との別は、坐禅を解いてからの言動の上で分かるとも言えましょう。というのも、坐禅を組んでいる間は高僧も凡僧も格別の差はないとも言えるわけですが、ひとたび坐禅をやめたとき、凡僧は「アア」などとあくびをして、坐禅はもうすんだものと思うでしょう。ところがえらい坊さんは、坐を解いても坐禅がすんだとは思わない。それどころか、真の坐禅はむしろこれから始まると思って、一層その心を引き締めることでしょう。同時にそこに人間の優劣の岐れ目があるわけです。

要するに平生が大事なのです。このことを昔の人は、「平常心是道」と申しています。つまり、剣を持ったり、坐禅をしている間だけが修養ではなくて、むしろ真の修業は、竹刀を捨て坐禅を解いてから始まるというわけです。人間もこの辺の趣が分かり出して初めて、道に入るのです。


結局、平素から暑いだの寒いだのと騒ぐ人は、心の鍛錬が足りていないのだということです。


逆にいえば、自己修養ができている人は、周囲の状況に一喜一憂することはない、ということでしょう。


人の振り見て我が振り直せ 


という言葉があるように、他人の行動や言動が気になるということは、実は自分自身も同じ事をする傾向があるか、最近ようやく改善したということなのではないでしょうか。