【原文】
人心の霊は気を主とす。「気は体の充てるなり」。凡そ事を為すに気を以て先導と為さば、則ち挙体失措(しっそ)無し。技能・工芸も亦是(かく)の如し。


【訳文】
人の心の霊妙な活動というものは、気(活力)を主体とするものである。孟子は「気は身体の中に充満している」といっている。たいたい、物事をなす場合に、この活力としての気を先導にしたならば、身体の総ての動作にあやまちは無い。技能や工芸についても同じである。


【所感】
人の心の霊妙さは気を主体としている。『孟子』には「気は体の充てるなり」とある。およそ何か事を為すときには、志気を先導とすれば、体全体に過ちは生じないものである。技術や工芸なども同様である、と一斎先生は言います。


まずここで引用されている『孟子』公孫丑上篇の言葉をみておきます。


【原文】
曰く、「敢て問ふ、夫子の心を動かさざると、告子の心を動かさざると、聞くことを得べきか」と。「告子は曰く、『言に得ざれば、心に求むること勿れ。心に得ざれば、気に求むること勿れ』と。心に得ざれば気に求むることは可なり。言に得ざれば心に求むること勿れとは不可なり。夫れ志は気の帥なり。気は體の充てるなり。夫れ志至り、気は次ぐ。故に曰く、『其の志を持し其の気を暴すること無かれ』と」「既に志至り、気は次ぐと曰ひ、又其の志を持し其の気を暴すること無かれと曰ふ者は何ぞや」と。曰く「志壹(いつ)なれば則ち気を動かし、、気壹なれば則ち志を動かせばなり。今、夫れ蹶(つまづ)く者の趨(はし)るは、是れ気なり。而るに反って其の心を動かす」と。


【訳文】
丑(ちゅう)「ぜひお尋ねしたいのですが、先生の心の動かされないのと、告子の心を動かされないのとについて、お話しくださいませんか」「告子は『人の言葉に納得のいかぬことがあったら、しいて我が心に求めて穿鑿するな。心に納得ができなくても、気に求めて怒るな』と言う。このあとのほうの『心に得ざれば気に求むることなかれ』というのはよいが、前のほうの『言に得ざれば心に求むることなかれ』というのはよくない。いったい、志は気の統率者であり、気は体に充満しているものである。また志の至るところには気がつき従って行くものである。だから、その志を堅持して、その気をそこない乱してはならぬというのである」「志が至るところには、気がつき従って行く、と仰せられた以上、またさらにその志を堅持してその気をそこない乱してはならぬ、と仰せられるのは、どういうわけですか」孟子「志が専一であると気を引き動かすけれども、気がいっぱいになっていると、逆に志を動かすものだからだ。たとえば、歩いてつまずくと、その拍子に二歩三歩走り出すのは、志ではなくて気であるが、(かくのごとく気がいっぱいになっていると)逆にその心を動かしはっとさせるようなものだ」(宇野精一先生役)


この言葉は、孟子が「浩然の気」を語る場面で出てきます。


簡潔に要約してしまえば、立志の重要性が説かれているとみることができます。


何事も志を立てれば、それに気が連動して、万事うまくいく、ということを一斎先生は言いたいのでしょう。


ここで、一つ思い出されるのは、有名な以下のお話です。(過去にも紹介済みですが)


かつて松下幸之助翁が講演の席で聴衆からダム式経営を行うための秘訣を問われた際、松下翁は


「わかりまへんな。ただ思うことです」


と答えたそうです。


それを聴いて多くの聴衆が失笑する中で、一人の青年だけはその言葉に衝撃を受け、「思う」ことの重要さに気づくのです。


その青年こそ、いまや名経営者として知られる稲盛和夫さんでした。


志を立てるとは、まず心に強く思うことです。


思いの強さが体を動かし、自身の全知全能に働きかけて、事を成就させるのではないでしょうか。


もう一度、自分の思いを明確にする必要がありそうです。