【原文】
苦楽は固より亦一定無し。仮(たと)えば我が書を読みて夜央(よなか)に至るが如き、人は皆之を苦と謂う。而も我れは之を楽しむ。世俗の好む所の淫哇俚腔(いんあいりこう)、我れは則ち耳を掩うて之を過ぐ。果して知る、苦楽に一定無く、各各其の苦楽とする所を以て苦楽と為すのみなることを。


【訳文】
苦も楽も、もとよりちゃんとしたきまりがあるわけではない。たとえていえば、自分が書物を読んで真夜中になってしまうようなことは、人はみな苦痛であろうというが、しかし自分はこれを楽しんでいるのである。また、世間の人々が好む所のみだらな声や卑しい歌などに出会う場合には、自分は耳を手でおさえて過ぎ去るのである。これによって、思った通り、苦楽には一定したものがなく、人々が自ら苦とし楽とする所を苦・楽としているだけであるということを知り得た。


【所感】
苦楽というものもまた主観的なものである。たとえば私が読書をしていて夜中になったと聞くと人はそれは大変ですねと言う。しかし私がそれを楽しんでいるのだ。また世間一般が好む淫らな歌や卑俗な音を聞くと、私は耳をふさいで通り過ぎる。これからも分かることだが、苦楽というものに主観的でないものはなく、人それぞれが自分の主観に応じて苦楽を判断しているに過ぎないのだ、と一斎先生は言います。


昨日までの順逆に続き、今度は苦楽についても人は自分の都合で作り出すものだと喝破されています。


一般的な人は、主観の中で生きています。


コヴィー博士も『7つの習慣』の中で、


人は自分の視たいように物事を視る 


と言っています。


そうした視方は、自分のライフスタイル(もしくはパラダイム)によって決定されます。


絶対善や絶対悪がないように、絶対楽、絶対苦もあり得ないのです。


だからこそ、どういう視点で物事を視るかが重要になってきます。


小生がずっと推奨し続けているのが、私欲を抑えて公欲を満たす生き方をすることです。


自分にとっては苦しいことでも、周囲の人や世の中にとって楽となることであるなら、その苦を進んで受け容れる度量を持ちたいものです。