【原文】
「楽しみは是れ心の本体なり」。惟だ聖人のみ之を全うす。何を以てか之を見る。其の色に徴し、四体に動く者、自然に能く申申如たり。夭夭如たり。


【訳文】
王陽明は「楽しみというものは、心の本来のありのままな姿である」といっている。ただ聖人だけがこれを全うしている。これはどうしてわかるか。それは聖人の顔色にあらわれ、あるいは体の動作によってわかる。すなわち、姿がのびのびとしていて、顔色がにこやかである。


【所感】
王陽明は『伝習録』の中で「楽はこれ心の本体なり」と言っている。これは聖人のみが全うできることである。では何をもってそれを判断するのかといえば、にこやかな表情やゆったりとしてのびやかな身体の動きをみれば自ずとわかることである、と一斎先生は言います。


まずは取り上げられている『伝習録』の言葉をもう少し詳しくみてみます。


【原文】
問う、楽しきは是れ心の本体なりと。知らず、大故(たいこ)に遇いて、哀哭するの時に於ても、此の楽しみは還(ま)た在りや否やと。先生曰く、是の大哭すること一番を須(ま)ちて方(はじ)めて楽し。哭せざれば便ち楽しからず。哭すと雖も此の心の安ずる処、即ち是れ楽しきなり。本体は未だ嘗て動くこと有らざるなり。 


【訳文】
おたずねします、「『楽しいということが、人間の本来の姿だ』ということですが、両親の死去にみまわれ、哀しみのあまり慟哭するようなときでも、その楽しいということがあるのですか」と。
先生が言われた、「そのような(かなしい)ときは、大声でわんわんと泣いてこそ(本来心が発現されますから)楽しいものなのである。わんわんと泣かないと楽しくないのである。わんわんと泣いたとしても、本人自身はそれで心おちついているのだから、それこそ楽しいわけである。泣いたとしても楽しいという本当の姿はついぞぐらついたりはしていないのだよ」と。(吉田公平先生訳)


この言葉には人間の弱さを理解した優しさを感じます。


小生も哀しい時は大声で泣き、落ち込むときはどん底まで落ち込んでよいものだと思っています。


泣いて涙を枯らし、落ち込んで心を真っ暗にしたなら、そこからは右肩上がりの人生しかないはずです。


ところが聖人になると、その真理がすでに完全に腹に落ちているので、そもそも泣き喚いたり、落ち込むようなことがなくなるのだ、ということのようです。


しかし、どんな聖人君子も最初からそうだったわけではないでしょう。


大声で泣いて、落ち込んだ先に、真の楽しみを心の中に見つけたのだと思います。


小生の生きる指針である、「逆境の後にしか人生の花は咲かない」という言葉にある「人生の花」とは、ここでいう「心の本体である楽しみ」と同じなのでしょう。


そんな真理を会得した聖人は、一つひとつの出来事に一喜一憂しませんので、その表情や態度にはなんともいえない穏やかさがあるのです。


ここに出てくる「申申如」・「夭夭如」という言葉は『論語』にあります。


【原文】
子の燕居(えんきょ)するや、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。(述而第七)


【訳文】
先師が、家にくつろいでおられるときはのびのびとされ、にこやかなお顔をしておられた。(伊與田覺先生訳)


孔子はプライベートのときは、ひじょうに穏やかだったようです。


『論語』を読むかぎり、孔子という人は決して順風満帆な一生を過ごした人ではなく、むしろ波乱万丈で、理想と現実のギャップに悩み続けた人なのです。


しかし、そんな心境を表情や態度には表さなかったということが、この言葉からわかります。


凡人である小生はまず、少しの期間だけ大声でなき、どん底まで落ち込んでから、この聖人の姿勢を意識して心を落ち着けることに精進します。