【原文】
生徒、詩文を作り、朋友に示して正を索(もと)むる、只だ改竄の多からざるを怕(おそ)る。人事に至りては、則ち人の規正を喜ばず。何ぞ其れ大小の不倫爾(しか)るや。「子路は告ぐるに、過ち有るを以てすれば則ち喜ぶ」とは、信(まこと)に是れ百世の師なり。


【訳文】
生徒が詩や文章を作って、これを友達に見せて訂正を求める場合には、ただ文章の字句を改める個所の多くないことを恐れる。しかるに、人間に関する事柄になると、正しく直してくれることを心よしとしないのは、なんとまあ事の大小の不釣合いなことであろう。孔子の弟子の子路が、他人が自分の過ちを告げてくれるのを心から喜んだというが、子路のような人は、誠に百世にわたって人の師となり手本となる立派な人である。


【所感】
生徒が詩や文章を作り、学友に添削を求める場合には、ただ字句を多く修正されることを不安に思うものだ。ところが人間に関わる事柄となると、それを戒め正すことを喜ばないのは、なんとも辻褄が合わない話ではないか。『孟子』には「「子路は告ぐるに、過ち有るを以てすれば則ち喜ぶ」とあるが、これはまさに三千年にわたって人の手本とすべきことではないか、と一斎先生は言います。


ここに取り上げた子路(孔子の愛した弟子)のエピソードは、子路ファンである小生の大好きなエピソードです。(これが『論語』に掲載されていないのが残念でなりません。)


【原文】
孟子曰く、子路は人之に告ぐるに、過有るを以てすれば、則ち喜ぶ。(公孫丑章句上)


【訳文】
孟子がいうに、「子路とう人は、他人が子路に『あなたは、こういう過ちをしていますよ。』と言って、過ちを忠告してくれることがるのを喜んだ。(内野熊一郎先生訳)


一本気で短気な一面のある子路は、『論語』の中ではなにかと孔子に注意をされる場面が多いのですが、しかし何度も『論語』を読み返してみると、そこには孔子の深い愛情を感じ取ることができます。


それは子路にこうした真面目な一面があることを、孔子が理解していたからでしょう。


小生が子路の大ファンである理由は、一本気で短気なところが自分の性格と似ていると感じているからなのですが、一方でこのように人のお手本となる一面を持っていることがもうひとつの理由です。


凡愚な小生は、五十を過ぎた今でも、他人から忠告を受けると素直に受け取ることができません。


相手がたとえ小生を非難する意図で小生の過ちを指摘してきたとしても、恬淡と受け入れる度量を持ちたいものです。


そして、孔子のように、六十にして耳順(したが)う、という境地にたどり着くことが今の目標です。


あと十年を切りましたが。。。