【原文】
史学も亦通暁せざる可からず。経の史に於けるは猶お律に案断有るがごとし。推して之を言えば、事を記するものは皆之を史と謂う可し。易は天道を記し、書は政事を記し、詩は性情を記し、礼は交際を記す。春秋は則ち言うを待たざるのみ。


【訳文】
歴史の学問にも精通すべきである。経書と歴史の関係は、あたかも法律と判決例との関係のようなものである。さらに推し広めて言えば、なした事柄を書くものは総て歴史といっても過言ではない。『易経』は天地自然の道理について書き記し、『書経』は政治の事を書き記し、『詩経』は人の性質や感情について書き記し、『礼記』は人との交わりについて書き記してある。これらは歴史といえる。魯の歴史である『春秋』はいうまでも無いことだ。


【所感】
歴史もまた広く理解しておくべきである。経書と歴史との関係は、法律と判例との関係のようなものである。さらに推し広げて言えば、出来事を記録したものはすべて歴史と言うことができる。『易経』は天地の移り変わりを記し、『書経』は政治を記録し、『詩経』は人の性質や感情について記録し、『礼記』は人との交際を記している。『春秋』については言うまでもないことである、と一斎先生は言います。


ここで一斎先生は、経書を法律だとするなら、歴史が判例に当たると言っています。


つまり、しっかりと経書を学んだら、その実例として歴史を学びなさい、ということです。


何のために法律を学ぶのかといえば、世の中を善くするためです。


日本国民が、善を行い悪に染まらないように導くためです。


それと同じように、経書を読む目的も、人々の生活を正し、世の中を善くするためです。


世の中を善くするために、実際に過去に行われた良い事例や悪い事例を歴史から学ぶのです。


渋沢栄一翁が記載したいわゆる『渋沢論語』には、『論語』の実例として歴史上の人物の事例が数多く解説されており、とても興味深く読むことができ、またしっかりと肚落ちします。


また、当時の維新を成し遂げた政治家の性格なども『論語』になぞらえて解説してあって、逆に歴史の裏側を観ることもできます。


いま、日本人に求められているのは、一人ひとりが自分自身でしっかりとした歴史観をもつことではないでしょうか。


しかし、正しい歴史観を持つには、何が正しいかを理解していなければなりません。


日本人の心の奥にしっかりと根付いている『論語』をはじめとする経書を読み、その後に歴史を学ぶ時、はじめて自分なりの正しい歴史観にたどり着けるのではないでしょうか?