【原文】
古書は固より宜しく信ずべくして、未だ必ずしも悉くは信ず可からざる者有り。余嘗て謂う、「在昔通用の器物は、当時其の形状を筆記する者無かりき。年を経るの久しきに至りて、其の器も亦乏しくして、人或いは其の後に及びて真を失わんことを慮り、因って之を記録し、之を図画し、以て諸を後に貽(のこ)せり。然るに其の時に至りては、則ち記録・図画も亦既に頗る謬伝(びゅうでん)有るなり。書籍に至りては、儀礼・周官の如きも、亦此(これ)と相類す。蓋し周季の人、古礼の将に泯(ほろ)びんとするを憫(うれ)い、其の聞ける所を記録し、以て諸を後に貽せり。其の間全く信ず可からざる者有り。古器物形状の紪繆(ひびゅう)有ると同一理なり。之を周公の著わす所なりと謂うに至りては、則ち固より盲誕(もうたん)なること論亡きのみ」と。


【訳文】
古い書物はいうまでもなく信ずべきものではあるが、そうかといって、総て信ずることのできないものもある。これについて、自分はこれまでに次のようなことを言ったことがある。「昔、普通に用いられた諸道具も、その当時に、その形状を記録したものはなかった。年月が久しくなるにつれて諸道具も乏しくなってきたので、後になって真の形状がわからなくなるのを心配して、これを記録したり、その形状を図面にして後世に残したのである。しかし、年がたつにつれて、その記録や図面もその当時に随分と伝え誤りがあったのである。書物についても、『儀礼(ぎらい)』や『周礼(しゅらい)』などもこれに類している。思うに、周末の人が、古礼のしだいに滅びていくのを心配して、聞いた所を記録して後の世に残したのである。その中にはまったく信ずることのできないものがある。これは古い器物の形状が誤りのあるのと同じ道理である。これを周公旦が著作したというのは偽(いつわり)であること論ずるまでもないことである」と。


【所感】
古い書物は元来信ずべきものではあるが、必ずしもすべてが信用できるものではない。私はかつて、「昔、一般的に使用された器物については、当時はその形状を記録したものは存在しなかった。年月を経て、それらの器物も希少となり、人びとは後の世に実際の形状が忘れられることに配慮して、これを記録し、図や絵として書き留め、後の世の為に残したのである。しかしその頃には、記録や図画も既にかなり間違って伝わっているものもあった。書籍に関していえば、『儀礼』や『周礼』などもこれと同様であろう。思うに周代末期の人々が古い礼が廃れることを患いて、聞いたことを記録し、後世に残したのである。それらは全部が全部信用できるようなものではない。古代の器物の形状があやまりであることと同じ理由である。これら(『儀礼』・『周礼』)を周公旦の著作だと言うに至っては、当然でたらめであることは論ずるまでもないことである」と言った。このように一斎先生は言います。


経書と言われる古い書籍を妄信し、闇雲に偏重してはいけない、という戒めの章句です。


小生は、3年以上にわたって『論語』を読み、仲間と一緒に読書会も開催し続けてきました。


東京・大阪・名古屋で開催させて頂いている潤身読書会では、なにが事実かを読み解くのではなく、『論語』の各章句をどのように読めば、自分たちの実生活において有益であるかを探求しています。


このため、単純に『論語』の章句を解釈するだけでなく、その章句を読んだ感想や気づきを参加者の皆さんにアウトプットしていただきます。


そのアウトプットから更なる気づきや学びを得ることができるという点が、潤身読書会最大の魅力だと考えています。


また、小生含め参加者の皆さんは学者先生ではありませんので、字句の解釈にもあまり拘泥しないことを心がけています。


ただし、大きな誤解を与えてはいけませんので、小生が『論語』の解説本約30冊を読み、様々な先生方の解釈を併載して、参加者の皆さんの理解の助けとなるような配慮はしています。


経書のような古典を読むときに大切なことは、そこに書かれていることの真偽を明かにすることを目的とするのではなく、あくまでも「温故知新」で、古いものをスープを煮るようにじっくりと暖め、そこから自分の仕事や生活に活かせる新たな学びや気づきを得ることにあるのではないでしょうか?


翻ってこれは、古典に限らず、読書における基本的確認事項なのかも知れません。