【原文】
学生の経を治むるには、宜しく先ず経に熟して、而る後に諸を註に求むべし。今は皆註に熟して経に熟せず。是(ここ)を以て深意を得ず。関尹子(かんいんし)曰く、「弓を善くする者は、弓を師として羿(げい)を師とせず。舟を善くする者は、舟を師として、奡(ごう)を師とせず」と。此の言然り。


【訳文】
学生が経書(儒教の経典)に精通するには、最初経書の本文に習熟してから、意味の不明瞭な所は註釈によるがよい。今の学生は皆、註釈に習熟して経書の本文に習熟しようとはしない。これでは、経書の深い意味内容つかむことはできない。道家の書である『関尹子(かんいんし)』に、「弓の上手な人は、弓そのものを師として、弓の名人である羿(げい)を師としない。舟を操る人は、舟そのものを師として、舟を動かす大力の奡(ごう)を師としない」とある。この言葉は誠にもっともなことである。


【所感】
学問をする者が経書を修得するには、まず経書に習熟してから後に注釈に頼るべきである。今の時代は皆が注釈に習熟して経書に習熟しない。こういうことだから、経書の真意を得ることができないのである。『関尹子』には、「弓の名人は弓そのものを師とし、弓の達人である羿を師とはしない。また、舟を巧みに操る人は、舟を師とし、舟を動かす奡を師とはしない」と記述されている。この言葉はまったくその通りである、と一斎先生は言います。


羿(げい)とは、伝説上の弓の名人で、堯帝のときに十の太陽が出たので、そのうちの九つを射落としたといわれる人物です。


また、奡(ごう)は地上で大舟を自由に操作し動かしたと伝えられる伝説上の大力の舟の名手です。(ともに、『日本思想大系』より引用)


現代でいえば、マニュアルに頼り過ぎるな、という教えだと言えそうです。


小生もかつて、潤身読書会を開催し始めたころ、ある先輩から現代の注釈書だけでなく、できれば原典に当たることを意識した方がよいとのアドバイスを受け、目から鱗が落ちたことを思い出します。


戦前の本邦では、初等教育において『論語』の素読がおこなわれていたそうです。


素読とは、意味の解説をせずに、ただ声に出して繰り返して読むという教育スタイルです。


これは、一見すると『論語』をマスターする上では、極めて遠回りのように思えます。


しかし、幼少のときに刷り込まれた『論語』の言葉が、後になって実生活や仕事の場面で、見事に生きてくるのです。


現代においては、「とにかくやってみろ」という教育は通用しません。


そういう指示をすれば、必ず「なぜですか?」と理由を問われます。


まず、体験し、そこから何かを感じた上で、意味づけをするというのが本来の教育であり、啓発とはまさにそいうことを言うのです。


「啓発」という言葉の出典となった『論語』の章句をみておきます。


【原文】
子曰わく、憤せずんば啓せず。悱(ひ)せずんばせず。一隅を挙げて三隅を以て反(かえ)らざれば、則ち復(また)せざるなり。(『論語』述而第七)


【訳文】
先師が言われた。
「自分で理解に苦しみ歯がみする程にならなければ、解決の糸口をつけてやらない。言おうとして言えず口をゆがめる程でなければ、その手引きをしてやらない。一隅を示して三隅を自分で研究するようでなければ、繰り返して教えない」


孔子は、弟子が出口(答え)を求めて悶絶するほどでなければ、出口を与えることはしない、と言っています。


若い方は、近道を求めず、マニュアルを遠ざけ、まずは真正面から事に臨んでみましょう。


また、若い人を指導するリーダーは、マニュアルを与えず、自ら挑戦する若者を育成しましょう。