【原文】
唐虞の治は只だ是れ情の一字のみ。極めて之を言えば、万物一体は情の推に外ならず。


【訳文】
堯・舜の二帝は理想的な政治をおこなったが、それはただ情の一字に帰するものといえる。極言するならば、万物を一体ならしめるということは、情を推しひろげたものである。


【所感】
伝説の皇帝である堯と舜の治世は「情」の一字に極まるといえる。極言すれば、万物をひとつにするものは、すべて情を推し広げたものに外ならない、と一斎先生は言います。


ここで一斎先生が「情」と呼ぶものは高遠なものであって、いわゆる「なさけ」とイコールではないと思われます。


しかし、小生にはそれを解き明かすことはできませんので、本章を読んで感じたことを記載するに留めます。


中国の神話に登場する堯と舜は、ともに中国の七聖人に称えられ、理想的な政治を行なったとされています。


堯には有名な鼓腹撃壌(こふくげきじょう)という逸話があります。


ある時、業は天下が本当に治まっているのかを自分の目で確かめようと姿を変えて視察に出ます。


すると、老人が腹を叩き、大地を踏み鳴らしながら歌っているのを目にします。


その歌の内容は、


【原文】
日出でて作し、 日入りて息ふ。 
井を鑿ちて飲み、 田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。  


【訳文】
日の出と共に畑に出て働き、 日の入と共に家に帰って休息する。 
のどが渇けば井戸を掘って飲み、 腹が減れば田畑を耕して食う。 
帝の力なんて私にはなんの関わりもない。


というものでした。


これを聞いた堯は安心して城に戻ったという故事です。


この故事ひとつを取っても、堯が人情を大切にしていたことが窺われます。


また、堯・舜ともに息子に帝位を譲らず、堯は舜へ、舜は禹へ禅譲しています。


これも天下のこと、そこに暮らす庶民にとって最適な選択肢を選んだという意味で「情」によるものと捉えることができるでしょう。


小生がこれまで2つの会社でマネジメントをしていく上で、もっとも大切にしてきたのは、


仕組みは性悪説でつくり、人には性善説で接する 


でした。


本物の悪者などそれほど沢山いるわけではないから、自分の組織のメンバーはみな善人だという前提でマネジメントをしています。


ただし、だれしも魔がさすということはあり得ます。


目の前にちょっとした悪事ができる環境があると、それをやってしまう人はいるかも知れません。


たとえば、ETCカードやガソリンカードの不正利用や商品の横流しをした社員さんを何人か目にしています。


こうしたことは二重チェックやデータ集計などを行なうなど、仕組みで防ぐことができます。


こうした仕組みづくりには、性悪説を取り入れておくと良いのです。


実は、情のマネジメントで性善説を前提にしてきた結果、何度か痛い目に遭ってはいますが、それでもこれを変えるつもりはありません。