【原文】
美酒膏梁(こうりょう)は、誠に口腹一時の適に過ぎず。既に腸内に入れば、即ち速やかに化して糞溺(ふんにょう)と為るを以て快と為し、唯だ留滞して病を成すを懼るるのみ。何ぞ其の愛憎の忽ち変ずること然るか。人主の士女の愛憎に於けるも、亦此れに類す。


【訳文】
美酒美食は、口と腹の欲をほんの一時的に満足させるに過ぎない。既に腸の中に入ってしまえば、すぐと消化されて大便・小便となって排泄されることは誠に心地よい(愛)が、ただいつまでも腸の中に滞っていて病気となることを心配する(憎)。どうして愛憎の変化することが、このように早いのであろうか。人主(大名)の侍女に対する愛憎の念もまたこれに似ている。


【所感】
旨い酒や美味しい食事といった一時の快楽は、ほんのひと時のものである。一度、体内に取り込まれたならば、速やかに糞尿となって排出されることが悦びであって、いつまでも体内に留まって病気を引き起こすことを心配する。好悪の情は、なんと瞬時に変化するものであろうか。上司が部下の社員さんに対して抱く好悪の情もこれと同様であろう、と一斎先生は言います。


源頼朝の異母弟・源範頼(のりより)は、事細かに行動を報告し、常に指示を仰いで、頼朝への忠誠を示したと言われます。


それが逆に、頼朝の指示を守らず独断専行した源義経の横暴振りを際立たせました。(その後、頼朝と義経は対立し、義経が自刃したのは有名ですね)


しかし、それほど頼朝に忠実であった範頼でさえ、たったひと言の失言で頼朝の信頼を失い、結局暗殺されることになります。


リーダーは、常に孤独であり、人を心から信頼することがいかに難しいかを教えてくれる故事ですね。


社長と共に二人三脚で社業発展に尽力し、平(たいら)社長から絶大な信頼を得ていた川井専務が、突如取締役を解任され、経営企画室長に降格になるという辞令が発令されたようです。


当然、社内はこの噂で持ちきりです。


「人事の話、聞いた?」
この手の話が大好きな総務課の大竹課長が、営業2課の神坂課長とお茶を飲みながら雑談中です。


「驚きましたね。
株式会社TKと揶揄されるくらい蜜月の関係だった社長と川井さんが仲違えするなんてね」


「なんでも、例の大型物流プロジェクトに関連する重要案件を、社長の承認を得ずに、川井専務が独断で進めたらしいんだ」


「忠実に社長の指示を実行してきた川井さんにしては珍しいですね」


「詳しいことはわからないんだけど、川井専務としては、後で正式な報告を上げるつもりでいたらしいよ。ただ、その前に平社長がK社の社長から直接その話を聞いてしまい、『報告がないのはどういうことだ!』となったらしい。」


「なるほど」


「ただ、例のプロジェクトは川井専務じゃないと動かせないようで、立場は変わってもそのまま任せるらしいけどね」


「それにしてもタケさん、どこからそういう情報を仕入れるんですか? すごい情報収集力ですよね、営業やりませんか?」


「勘弁してよ、俺は頭を下げるのが大の苦手でね」


「まあそれは冗談ですが、ウチも急激に規模を拡大してきたから、社長も心配事が増えて、いろいろな点で疑心暗鬼になってるのかもしれませんね?」


「もしかしたら川井専務に会社を乗っ取られるんじゃないか?とでも思ったのかもしれないな?」


「しかし、10年かけて築いてきた信頼が、たったひとつの出来事で一瞬にして崩れてしまうというのは怖いことですね」


「信頼を失うのは一瞬、取り戻すのは一生、なんて格言もあるからね」


「私なんか、普段から言いたい事を相手構わず言い放ってますから、そういう心配はないかもなぁ」


「馬鹿言ってんじゃないよ。そういうこと言ってるから、いつまで経ってもメンバーと信頼関係を築けないんじゃないの?」


「タケさんこそ、言いたいこと言ってませんか?」


ふたりは大爆笑しています。


「そういえば昨日、ウチ(総務部)のボス(西村部長)が、おたくのボス(佐藤部長)とそんな話をしていたよ」


「どうせまた、一斎先生でしょ?」


「そう、その一斎先生が、『人間の好悪の情なんて一瞬にして変化するものだと言ってるから、上司に対しても、部下に対しても、常に細心の注意を払うべきだ、というようなことを言ってたな」


「信頼とは何なんだろう?」


神坂課長は、得意先に向う車の中で、平社長の気持ちと川井専務の気持ちの双方に思いを寄せ、上司である佐藤部長や、部下である2課のメンバーに対する自分自身の言動を再点検していたようです。


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