【原文】
人道は敬に在り。敬は固より終身の孝たり。我が軀(み)は親の遺(い)たるを以てなり。一息尚お存せば、自ら敬することを忘る可けんや。〔『言志耋録』第286条〕
【訳文】
人間として履み行なうべき道は敬にある。その敬はもちろん一生涯における孝(父母によく仕えること)である。自分の身体は、父母が自分に遺してくれたものであるからである。それで、一息でも通う間は、自ら敬することを忘れてはいけない。
【所感】
人として生きる基本の道は身を慎むことにある。身を慎むとは、もちろん生涯親孝行をすることである。自分の身体は親の遺体だと考えれば、呼吸している間(つまり生きている間)は自らを慎むことを忘れてはいけない。
「おっ、愛妻弁当か、いいなぁ」
「大累課長、私、独身ですよ!」
「あれ、そうだったっけ? え、じゃあ、その弁当は誰が作ってくれたの?」
「母です」
「弁当男子ってのは聞いたことあるけど、いまどき母親に弁当を作ってもらってる男子のことは何て呼べばいいんだ?」
「別に命名していただかなくて結構ですよ。。。」
「本田君、いくつになるんだっけ?」
「29歳です」
「いつまで弁当を作ってもらうつもり? 親離れしないとな!」
「いや、母がどうしても作りたいって言うんです。うちの母が子離れできてないんですよ。私は親孝行のつもりで、弁当を食べてるんですから!」
「物は言いようだな。それが親孝行かは別として、親孝行できるということは有難いことだぞ」
「大累課長のご両親は?」
「もうふたりともあの世に居るよ」
「そうでしたか、すみません」
「いや、気にするな。俺はさ、この性格だろ? 好きなことをやりたいだけやって来てさ。そろそろ親孝行しなきゃなと思っていた矢先に、ふたりともあっという間に逝っちゃったんだよな」
「・・・」
「『親孝行、したいときには親はなし』って言うけど、あれは本当だよ。あの両親がいなければ、俺はこの世に生まれてすらいないんだからね」
「そういえばこの前、佐藤部長とも同じような話をしたんですが、そのとき『我が身は親の遺体』という言葉があると言ってました」
「自分の身体は親の遺産ということか?」
「だから、自分の身体を労わることは、そのまま親への孝行にもなるんだと仰っていました」
「なるほどな。俺は、両親には感謝しているし、尊敬もしてるんだが、生きている間はどうしても素直にそれが言えなかったな」
「私も毎朝、弁当を渡されるときに『ありがとう』が言えないんですよ」
「言えるうちに言っておけよ。絶対、後で後悔するからさ」
「そうですね。明日は気合入れて。(笑)」
「実はさ、俺はせめてもの罪滅ぼしにと、両親の命日と父の日、母の日には毎年墓参りをさせてもらってるんだ」
「そうなんですか?」
「ここに雑賀がいたら、絶対『キャラじゃないっすね』とか言うんだろうけどな」
「大累課長、それは間違いありません!」
「ってことは、やっぱり本田君もそう思ったわけね?」
「い、いやいや、決してそんなことは・・・」
「あっ!」
「どうしたんですか? 急に大きな声を出して!」
「いいのを見つけたよ」
「???」
「母の溺愛弁当を食べるアラサー男のネーミング! 聞きたいだろ?」
「結構です!!」
「おーい。なんだよ。行っちゃったよ」
「課長、代りに聞いてやってもいいっすよ」
「雑賀、いつの間に!!」
「いいネーミングだと思うんだけどな」
「どうぞ」
「マンマ男子! まんま(ご飯)とママを掛けてるんだけど、どう?」
「クソ面白くないっすね」
編集後記
『白虎通』という古典に「孝は百行の本」という有名な言葉があります。
すべての行動の基本は、孝行にあるということでしょう。
一斎先生は、人を敬う気持ちも孝の精神から生れるとしています。
最近の世論には、「子が親を尊敬しないのは当然だ」という暴論まであります。
これは、核家族化の弊害なのかも知れません。