【原文】
人情、安を好んで危を悪(にく)まざるは莫し。宜しく素分を守るべし。寿を好んで夭を悪まざるは莫し。宜しく食色を慎むべし。人皆知って而も知らず。〔『言志耋録』第289条〕
【訳文】
人情として安楽を好み災難を悪まない者はいない。自分の本分を守るがよい。また、人情として長寿を喜んで若死を嫌わない者はいない。食い気と色気とを慎むがよい。だれでもこれをよく知ってはいるが、(実行しないのを見ると)知ってはいないのであろう。
【所感】
ふつうの人情として、安全を好み危険を嫌わない者はいない。よく自分の本分を守るべきであろう。また、長寿を好み若死を嫌わない者もいない。よく食欲と色気を慎むべきである。これは皆知っているようで、実は理解していないことだ、と一斎先生は言います。
「神坂、まだ立ち直れないのか?」
「ああ、肉親の死というより、ライバルが居なくなってしまった空虚感みたいなものの方が強い気もするんだが、いずれにしても、心の真ん中に穴が開いてるような感じだよ」
「お前にとって、その兄貴は特別な存在だったんだな」
「なんだろうな。悲しいというより、虚しいという感覚がずっと続いてるんだ」
神坂課長、今日は同期の鈴木課長と仕事の後に一杯やっているようです。
「それにしても、ちょっと飲みすぎじゃないか?」
「ここのところ酒の量は増えたかもな。飲んでいないとこの空虚感を埋められないんだ」
「今日はそろそろ酒はやめておけ」
「なあ、鈴木。俺、紗耶香に会ってみようかと思ってるんだ」
「バカ野郎! 何言ってやがんだ。今更、別れた女に会って何になるんだよ!」
「俺はあいつのお陰でまともな人生を歩けるようになった。今でも、何かにつまづくと、真っ先に浮かんでくるのは紗耶香の顔なんだ」
「だけど、紗耶香は・・・」
「そう思ってた。ところがこの前、偶然、Facebookでつながったんだ。O市で店をやってるらしい」
「神坂くん、今更、元カノに会ってどうするつもりなの?」
「ママ! 盗み聞きしないでよ!」
「あら、このお店のお客様の話を聞くのはあたしの権利よ!」
ふたりは、今日も「季節の味 ちさと」で飲んでいるようです。
「いや、別に今更昔の恋愛を蒸し返そうというつもりはないよ。ただ、あいつならこの空虚感を埋めてくれそうな気がして・・・」
「神坂君はお兄さんの分まで生きなければいけないんじゃないか?」
「部長、いつの間に?」
「えっ? 神坂、さっき部長が店に入ってきたの気づかなかったの?」
「全然」
「重症だな、お前」
「一斎先生はね、『危険な領域に立ち入りたくないなら、自分の本分を大切しなさい』と言っているよ」
「本分ですか?」
「それに『無駄な生き方をしたくなかったら、酒と女を慎みなさい』とも言ってるね」
「人間として尊敬している人でも、相手が異性で、昔付き合っていた人だと、簡単に会うことも許されない。人間って複雑で難しい生き物ですね」
「みんな会うなとは言ってないだろう。会わない方がいいんじゃないかって言ってるんだよ」
「だから! 今更もう一度付き合おうと思ってるわけじゃねぇんだよ!!」
「・・・」
「すまん。感情的になり過ぎた」
「神坂くん、あなたの心の問題を解決できるのは、その人ではないと思う。神坂くん自身で乗り越えるしかないんじゃないのかな?」
「・・・」
「あなたのお兄さんは、こうして亡くなった後でも、あなたや周囲の人たちに大きな影響を与えているじゃない」
「まあ、すごい兄貴でしたから」
「あたしの人生のバイブルにはね、『死後にも、その人の精神が生きて、人を動かすようでなければいけない』と書いてあるの」
「死んだ後も人を動かす?」
「そうよ。そのためにはね、『生きている間、思い切り自分のやるべきことに徹して生きる外ない』とも書いてあるわ」
「それが、一斎先生の言う『本分』というものだろうね」
「たしかに、そうですね。ははは。私は死んだ兄の変わりはできないし、生きている間は、とにかく自分のベストを尽くしかないんでしょうね」
「神坂、紗耶香のことは?」
「まあ、ちょっとそんな風に思っただけなんで、大丈夫だよ!」
「(神坂のやつ、ちょっとマズいな)」
鈴木課長は、長年のつき合いから嫌な予感がしているようです。
編集後記
人は辛いときや逆境にある時ほど、過去のことにいつまでも悩んだり、未来のことを心配して立ち止ってしまいます。
しかし、自分の環境を変えることができるのは、自分だけです。
「逆境の後にしか人生の花は咲かない」
これは、小生のモットーです。