今日の神坂課長は、Aがんセンター消化器内科部長の多田先生と面会中のようです。
「多田先生、私は40歳にしてようやく読書の面白さに気づきました」
「ほお、お前が本を読むようになったのか。どんな本を読んでいるんだ?」
「主に日本の偉大な思想家や教育者に関連する本です」
「具体的にはどんな人物なんだ?」
「吉田松陰先生や佐藤一斎先生です」
「ははは。佐藤さんの影響が大きそうだな」
「はい、多大な影響を受けています」
「あえて、もう少し推薦するなら、中江藤樹や石田梅岩あたりも読むといいぞ」
「ありがとうございます。ちょっとメモさせてください」
「ただな、神坂」
「はい?」
「本からの学びはあくまでもインプットであって、それをしっかりとアウトプットしないと、真の読書の意義を理解していないことになるんだぞ」
「実践ということですか?」
「そうだ。本から得た知識を自分のものにするには、実践してみることが一番だ。お前は学者になりたいわけではないだろう」
「はい、もちろんです。マネジメントに活かす読書をしようと思っています」
「そういう意味では、本から学ぶことはむしろ学問をする上では当然のことであって、それだけに留まってはいけないんだ」
「人から学ぶことが重要ということですか?」
「おお、神坂。お前、たしかに成長しているな。今までのレベルの低い会話が嘘のようだ」
「た、多田先生! レベルの低い会話はないでしょう」
「ばかやろう! お前との会話の8割は低レベルの会話だよ」
「がくっ」
「ははは。しかし、その通りだ。人間から学ぶ、つまり師匠を持つということが、学問をする上ではひじょうに重要なことなんだ」
「そうなんですね。私には師匠と呼べる存在はまだいないなぁ。ただ、N鉄道病院の長谷川先生や佐藤部長からはたくさん学ばせていただいています」
「ああ、長谷川のオヤジな。あの人は俺の師匠だよ。俺が唯一恐れる人物でもある」
「多田先生でも怖がる人がいるんですね? 多田先生がビビッてるところを見てみたいなぁ」
「見たいなら、学会にでも行けば、普通に見れるだろう。ただな、神坂」
「はい?」
「その上があるんだよ」
「本よりも、師匠よりも上のものということですか?」
「そうだ」
「何ですか、それは?」
「天だよ」
「天・・・?」
「さっき敢えて名前を挙げなかったんだがな。二宮尊徳という名前は聞いたことがあるだろう?」
「はい、薪を背負って本を読んでいる人ですよね」
「その言い方が低レベルだっていうんだよ。あれは尊徳の少年時代の話だよ」
「何度も低レベル、低レベルって言わないでくださいよ。私だって少しは傷つくんですから」
「その尊徳さんがこう言ってるんだよ。『自分は経書以上に天地の教えを尊ぶ。文字に書かれていない天地の教えこそが、誠の道を教えてくれる』とな」
「多田先生、もう少し教えてください」
「よし、じゃあランチを食べながら話そうか。神坂、時間はあるか?」
「はい、喜んでお供します!」
第1136日につづく
ひとりごと
二宮尊徳の『二宮翁夜話』には以下のような言葉があります。
「夫れ我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす。予が歌に『音もなくかもなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ』とよめり、此のごとく日々、繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛かる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求むる学者輩の論説は取らざるなり。能く目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり」
本からの学びも、師匠の教えも勿論重要です。
しかし、それ以上に天地の教えに対して、目を開き、耳を澄ませることが大事だと一斎先生は教えています。
まして五十を超えた小生のような人間が、「五十にして天命を知る」ためには、天地の教えを尊ぶ必要性が高そうです。
【原文】
太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経(けい)を師とす。〔『言志録』第2条〕
【所感】
学問をするにあたっては、天を最上とし、次いで人を師と仰ぎ、その次に経書を師とすべきである、と一斎先生は言います。