金曜日の夕方、珍しいお客さんがオフィスを訪れました。


「おお、サイさん。どうしたの?」
佐藤部長が真っ先に気づいたようです。


「ご無沙汰しております、と言うほど時間は経ってないですかね。皆さん、お元気ですか?」
3月に定年退職をした西郷課長のようです。


「えーっと、どちら様でしたっけ?」


「酷いなぁ、神坂君。まだ、退職してから1ヶ月しか経っていないのにさぁ」


「ははは、失礼しました。で、今日はどうされたんですか?」


「ちょっと近くまで来たので、甘いものを食べたい時間だろうから差し入れをお持ちしました」


「やったぁ、ありがとうございます!」


「石崎、お前の分まであるかどうかわからないぞ」


「大丈夫です。最悪、課長の分があれば、課長はダイエット中ですから、私が変わりに食べてあげますから」


「クソガキが」


「えっ、何か言いましたか?」


「石崎君、大丈夫だよ。皆さんの分はちゃんとあるから。この近くにある人気の洋菓子屋さんのケーキだからおいしいと思うよ」


「西郷課長、あそこのケーキは最高ですよ。ただ、お高いんですよね。ありがとうございまーす」


「ところで、佐藤部長。新美君は外出中ですか?」


「ああ今、1課のミーティング中じゃないかな。おお、ちょうど終ったみたいだ。新美君!」


「あ、西郷課長!」


「おいおい、もう私は課長じゃないよ」


西郷元課長と新美課長はふたりで喫茶コーナーへ行ったようです。


「どうだい、課長の仕事は、少しは慣れたかな?」


「ええ、皆さんに助けていただいてなんとかこなしています」


「悩んでいることはないの?」


「それは、たくさんあります。たとえば、課長になる前と同じ発言をしているつもりでも、メンバーの受け取り方は全然違うので、とまどっているのもそのひとつです」


「ほお、たとえばどんなこと?」


「はい、私はアドバイスのつもりで言ったことが、命令だと受けとられてしまうんです」


「そういうものだよ。だからこそ、今のその気持ちをずっと忘れずにいればいいんだよ」


「どういうことですか?」


「人は地位が上ったり富や栄誉を得ると、気づかないうちに心が驕ってしまい、大切な志までしぼませてしまうんだ。いつの間にか、アドバイスではなく指示ばかりになって、まるで自分の分身を作ろうとしているかのようになってしまう。まあ、新美君にはその心配はないとは思うけど」


「いや、そんなことはありません。今のアドバイスを肝に銘じておきます」


「そう、これもあくまでアドバイスだからね。取捨選択は新美君の判断でやってくれよ」


「はい、もちろんです。それと、もうひとつ気になっているのが廣田君なんです」


「まだスランプから脱出できないのか?」


「はい、彼は性格が優しすぎる上に完璧主義なところがあるので、彼がこの商品は絶対に良い商品だと思えないと、お客さまに本気になって提案できないようなんです」


「誰にとっても100点満点の商品などないんだけどな」


「ええ、最近はよく二人で面談もしているんですが、そこが腹に落ちないようです」


「彼の場合は今の新美君とは逆で、同期の本田君に差をつけられていて、立場は同じ主任でも、名声や報酬の面では苦しいときだよね。しかし、そういう時にこそ志は磨かれるんだよ」


「なるほど。最近は、売上や商品の話ばかりしていましたので、志について彼と話をしてみます」


「もう私は新美君の上司じゃないから、君に任せるよ」


二人はオフィスに戻ったようです。


「では皆さん、そろそろ帰ります。お忙しいところお邪魔しました」


「西郷課長、ケーキ最高でした! また寄ってくださいね」


「石崎、今の発言は完全にお土産狙いだろ! サイさん、今日はゆっくり話せなかったですが、またゆっくり話を聴かせてください」


「神坂君、ありがとう。そう言ってくれるとうれしいよ。佐藤部長、またお邪魔させてもらいます」


「もちろんです。時々顔を出して、ウチの若い連中の背中を押してもらえると助かります」


ひとりごと

この言葉は小生には強烈に突き刺さります。

小生が前勤務先で課長に昇格したときは、まさに怖いものなし、天下を取ったような気分でいました。

当然、自分の意見が絶対だと信じて、メンバーには指示をするだけで、自ら考えることをさせていませんでした。

その結果、どうなったかは推して知るべしです。

しかし、人間は生きている限りリベンジするチャンスを与えられているはずです。

転落したら、志を磨いて、再び這い上がれば良いのです。


原文】
富貴は譬えば則ち春夏なり。人の心をして蕩せしむ。貧賤は譬えば則ち秋冬なり。人の心をして粛ならしむ。故に人富貴に於いては即ち其の志を溺らし、貧賤に於いては則ち其の志を堅くす。


【訳】
財産が豊富で、地位も高い位置にあるときは、調子に乗って淫らな生活をし、志を保ち続けることは難しい。逆に貧乏で地位の低いときには、かえって人は気持ちを引き締め、志を強く認識するようになる



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