今日の神坂課長は、西郷さん(元営業1課長)の主査する『論語』の読書会に参加しているようです。


「『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』という言葉は聞いたことがあるでしょう?」


「あー、それは有名な言葉ですよね。私でも知っていますよ」


「神坂君が知っているくらいだから、やはりこの言葉は相当に知られているんですね」


「サイさん、俺を認知度テストの指標みたいに言わないでよ!」


「ははは」
参加者の皆さんが爆笑しています。


「今日はその言葉が出てくる章句を紹介します。あるとき、子貢という、孔子の弟子の中でも特に優秀なお弟子さんが、近頃頭角を現してきた2人の弟子、子張と子夏では一体どちらが優秀か、と孔子に尋ねるんです。居ますよね、こういう人の評価が大好きな人。子貢はそういう所があって、誰と誰ではどちらが優秀なのかといった話が大好きなんです」


「ウチの会社で言うと、雑賀みたいな奴ですね」
同席している大累課長です。


「たしかに雑賀君はそうかもね。それで、その質問に対して、孔子はこう答えるのです。『子張はちょっとやり過ぎなところがある。子夏は物足りないところがあるね』と。そこで子貢は考えます。孔子という人はすぐに答えを言わないんですね。まず、ヒントを出して弟子に自ら考えさせるのです」


「なるほど、そこは大いに見習わないとな」
神坂課長が独り言を言っています。


「そして子貢は答えます。『やり足らないよりはやり過ぎの方が良いと思いますから、子張の方が優秀だということですね』」


「俺もそう思うな」
神坂課長は心の中でつぶやきます。


「ここで孔子が冒頭の言葉を発します。『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』、つまり、やり過ぎもやり足りないのも一緒だよ、ということですね」


「そうなんですか?」


「たとえば、やり過ぎる人は他人の仕事まで奪ってしまうことがあるから人の恨みを買うし、やり足らない人はその分他人が働かなければならないから迷惑をかけるよね。そういう意味で、やはり中庸、つまり適度というものを常に意識しないといけない、という意味だろうと私は解釈しているんだ」


「なるほどな」


「ただ、孔子の凄いところは、子貢が『子張の方が勝れている』と答えることをあらかじめ予期しているところだろうね。なぜなら、子貢も子張と同じように、やり過ぎる傾向のある人だったからね」


「ちなみに、この方もそうだと思います」
大累課長が神坂課長を指差しています。


「ゴン」


「痛て」


「まあ、確かに神坂君も子張タイプだね。でも、大累君もどちらかといえば同じタイプじゃないかな?」


「えー、この人と一緒は嫌です!」


「ゴン」


「痛て、さっきより本気で殴ったでしょう!」


またまた参加者一同、爆笑しています。


「何をするにも適度にやるという意識を持てば、悪事に手を染めることはなくなるんじゃないかな? 人間は求めすぎて失敗するからね」


「そういう意味では、足りないくらいが丁度良いのではないですか?」


「大累君、良い指摘だね。仕事については不足しては困るけど、自分の私欲は足りないくらいで丁度良いだろうね。ただし、学ぶ意欲は求め過ぎるくらいで丁度良いのかも知れない。そのように物事によって、どこが最適かを考えることも大きく捉えれば中庸を意識することになるのではないでしょうか」


ひとりごと 

仕事に関しては、若いうちはやり過ぎるくらいの意欲が欲しいところです。

しかし、働き方改革などによって、労働時間が一律化していくのが現代です。

それはすなわち、差のつきやすい時代を迎えたことになるのではないでしょうか?

自分独りの時間をいかに有意義に過ごすか否かで、人生の方向が決まってしまいます。

すべてを自分自身でマネジメントしなければいけない時代が到来しているのです!


原文】
看来れば宇宙内の事、曷(なん)ぞ嘗(かつ)て悪有らん。過不及有る処則ち是れ悪なり。看来れば宇宙内の事、曷ぞ嘗て善有らん。過不及無き処即ち是れ善なり。〔『言志録』第205条〕


【意訳】
観察してみると、世の中にどうして悪というものが存在しようか。過ぎたり、足りなかったりすることがあれば、これが悪であろう。また、どうして善というものがろうか。過ぎたり、足りなかったりすることがなく、中庸を保つことができれば善なのである。


【ビジネス的解釈】
ビジネスにおいても、やり過ぎたり中途半端に終えると結果は出ない。しっかり準備をした上で過不足なく遂行できれば、結果は自然とついてくるものだ。


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