特販課の雑賀さんが21時を超えても残業をしているようです。
「おい、雑賀「そろそろ帰れよ。俺ができることなら明日にでも手伝うからさ」
「大累課長、ありがとうございます。俺、家に帰ると母親の世話があったりして、集中して物事を考えることができないんです」
「例のプロジェクトが煮詰まっているのか?」
「そうです。ひとつお客様から大きな宿題をもらっていましてね。俺もそれほどITの知識が深いわけでもないので、いろいろと資料を読んだりして勉強しているんですけど、なかなか良いアイデアが浮かんでこないんですよ」
「そういうことか。ITのことだとすると、俺は力になれないかな」
「俺、今頃になって大累課長が言ってくれたことが身に染みてるんです」
「え、俺がお前に何て言ったんだ?」
「『若い時に手を抜くと、後々大きな仕事ができないぞ』って言われました」
「それ、俺が言ったの? ははは、その言葉、かつて神坂さんから俺が言われた言葉なんだよ。そうか、俺はいつの間にかあのおっさんの影響を受けてたんだな」
「でも、その言葉の意味が今頃わかったんです」
「まあ、そうだよな。いくら本を読んだり、文献を漁ったりして知識を入れても、それを自分の経験というフィルターで咀嚼しない限り、良い解決策は生まれてくれないからな」
「そうですよね。俺はその経験ってやつが圧倒的に浅いんですよ」
「よし、じゃあこうしよう。俺が神坂さんにお願いするから、お前と石崎と神坂さんと俺の4人で解決策を討議しよう。お前たちよりは少しは先輩の神坂さんと俺がいれば、経験の部分は補えるだろう」
「ああ、そうしてもらえますか。ありがとうございます」
「了解。後で神坂さんには電話しておくよ。でもな、雑賀。自分の経験が足りないことに気づいたのは良いことだし、まだ全然遅くないと思うぞ。それにお前の良いところは、浅い経験のまま突っ走ろうとせずに、ちゃんと本や文献を読むところだと思う」
「課長、なんか照れますよ。俺は課長に叱られているときの方が居心地がいいんですから」
「なんだよ、それ。でも、今のは本音だからな。じゃあ、今日はそろそろ帰れよ。お母さんも待ってるだろうしな。俺は神坂さんに電話してから、居室の退出項目をチェックして帰るよ。お疲れさん!」
「お疲れ様でした。あ、大累課長」
「なんだよ」
「いろいろありがとうございます。俺、課長のこと尊敬してますから!」
「やめてくれ、俺も褒められるのは苦手なんだ。じゃあな」
去っていく大累課長の目にも、見送る雑賀さんの目にも光るものがあったことは、お互いに知る由もないことのようです。
ひとりごと
学びと思索は、物事を為す上においては、まさに車の両輪のようなものです。
どちらが欠けても、偏りが生じてしまいます。
しかし、時期によってバランスは違ってくるでしょう。
20代、30代のうちは、学び7割、思索3割くらいでよく、40代以降は、学び4割、思索6割くらいでもよいのかも知れません。
【原文】
凡そ教えは外よりして入り、工夫は内よりして出づ。内よりして出づるは、必ず諸を外に験し、外よりして入るは、当に諸を内に原(たず)ぬべし。〔『言志後録』第5章〕
【意訳】
総じて教えというものは外から入ってくるものであり、
創意工夫は自身の内部から生まれてくるものである。自身の内部から生まれてきたものは、必ず教えに照らし、外から入ってくるものは、必ず自身の中で実行すべきものかどうかを判断するべきである。
【ビジネス的解釈】
学びと創意工夫は、自分自身を成長させるための車の両輪である。学んだことは自分自身でよく咀嚼してから実行に移すべきであり、自らのアイデアは教えに照らして実施すべきか否かを判断すると良い。