今日の神坂課長は、新美課長とランチタイムのようです。
「いやー、参ったよ。昨日はまんまと石崎の術中にはまって晩飯を奢らされたよ」
「石崎君は将来、良い営業マンになりそうですね。神坂さんに飯を奢らせるなんて、なかなかできませんから」
「おいおい、その言い方って、俺がすごくケチな人間に聞こえるんだけど?」
「いや、そういう意味じゃないですよ。ただ、私は記憶にないなぁ・・・」
「っていうか、お前だって、日ごろの俺のアドバイスに感謝して奢ってくれてもいいのに、一度もないよな」
「そこは『出せば入るの法則』じゃないですか?」
「なるほど、出すのが先ってことか。じゃあ、来月はお前に飯をご馳走するよ」
「ははは、嫌々ご馳走されても美味くないから、遠慮しておきます」
「そこなんだよ! 俺はさ。お前のような後輩やメンバーに尊敬してもらいたいと思っているんだけど、こればっかりは強制するわけにはいかないだろう?」
「まあ、そうですね。『尊敬しろ!』って言われて、尊敬できるものではないですから」
「真の敬意というのは、自然とあふれ出すものでなければ駄目だよな。みんな、俺と一緒にいると緊張するって言うんだ。そう言われないように俺なりにいろいろやってはいるんだけどなぁ」
「一緒にいて、心に安らぎを与えられる人というのは自然に尊敬されるものかも知れませんね」
「安らぎかぁ、俺には無理だな」
「諦めちゃ駄目ですよ。まずは神坂さんが上司や先輩に対してつつしみ深く接するようにすることも大切じゃないですか?」
「先輩というと、佐藤部長、西村部長、タケさんあたりか。尊敬はしているけど、俺は口が悪いからなぁ」
「ここは素直に言いますが、神坂さんのことを尊敬している後輩は多いですよ。特に、最近は読書をしたり、人間学を学んだりしているからか、すごく話しやすさを感じるようになってきましたから余計にね」
「え、本当? それはうれしいなぁ。じゃあ、なんでみんなそう言ってくれないのかな?」
「そ、それはですね・・・」
「なんだよ、教えてくれよ!」
「そういうことを言うと、神坂さんってすぐに調子に乗るじゃないですか!」
ひとりごと
石田梅岩先生の言葉に、
「忍は忍なきに至ってよしとす」とあります。
つまり、意識をして我慢しているうちは本当の忍耐ではない、ということです。
同じように、敬(うやまいとつつしみの2つの意味があります)も、無理をしているうちは真の敬ではない、と一斎先生は言っています。
常に心を広く伸びやかにして、すべてに自然体で接することができる人を君子と呼ぶのでしょう。
はるか遠くにある理想の君子像に少しでも近づけるように精進するしかありません。
【原文】
心に中和を存すれば、則ち体自ら案舒(あんじょ)して即ち敬なり。故に心広く体胖(ゆた)かなるは敬なり。徽柔懿恭(きじゅういきょう)なるは敬なり。申申夭夭(しんしんようよう)たるは敬なり。彼の敬を視ること、桎梏(しっこく)・徽纆(きぼく)の若く然る者は、是れ贋敬にして真敬に非ず。〔『言志後録』第22章〕
【意訳】
心が常に中和の状態であれば、体はゆったりとして安らかである。これがすなわち敬(つつしみ)である。『大学』伝の六章にある「心は広くして体は胖かなり」というのも敬である。『書経』(無逸)にある文王の人となりが「よく従順で、大変つつましやか」といったのも敬である。『論語』述而第七篇において孔子の態度を「のびのびとされ、にこやかな顔をされていた」というのも敬である。敬とは手かせ足かせのようなもの、あるいは縄で縛られたようなものと見る者は、ニセモノの敬であって、ホンモノの敬ではない。
【ビジネス的解釈】