今日の神坂課長は、A県立がんセンター消化器内科の多田先生を訪れたようです。

「神坂、最近は読書をする人間の顔になってきたな」

「そんなの顔でわかるものですか?」

「わかるに決まっているだろ! 特にお前のようにこれまでまったく本を読まなかった人間が読書をするようになれば、すぐにわかるぞ」

「そうなのですか? でも、それは良いことですよね・・・」

「もちろんだよ。俺は本を読まないような営業からモノを買いたくないからな」

「ありがとうございます。多田先生のお陰です」

「ただな、神坂。本を読むとすぐに誰かに語りたくならないか?」

「そうなんです! つい、メンバーに薀蓄を言いたくなる自分がいます」

「そこをぐっと堪えて、まずは自分自身で実践するのが先だぞ。自分で実践していないことは、語ってもどうしても薄っぺらくなるからな」

「はい、反省します」

「実践して、自分の体験に置き換えて、自分の言葉で話をすれば、必ず伝わるものだ」

「はい」

「若い奴らは、孔子がどう言ったかなんてどうでもいい。ただ、孔子が言わんとしたことをお前の体験として話をすれば、自然と聞く耳を持つはずだ。孔子の言葉にはそれだけの重みがあ
るからな」

「なるほど」

「ところで、最近はどんな本を読んでいるんだ?」

「はい、『老子』を読み始めています」

「ほぉ、『老子』か。それは良いことだな。しかし、お前のような手抜きの多い輩は、やはり儒学を80%、老荘を20%くらいのバランスで読んだ方がいいだろうな」

「へぇ、なぜですか?」

「さっきも実践が大事だと言っただろう。『老子』は心が軽くなるかも知れないが、具体的に何をすべきかがあまり書かれていないんだ。だから何かを実践するには儒学を主体にすべきだと俺は思う」


ひとりごと
 
本章の一斎先生の言葉は、小生もまた読むと恥ずかしくなります。

毎月、東京・名古屋・大阪で潤身読書会を主査しておりますが、いつの間にか自分で実践していないことをペラペラと話してしまっている自分に気がつくことがあります。

そんなときは、自分は気持ちよく話をしていても、参加者の皆さんには響いていないのでしょう。

あらためて反省致します。


原文】
聖賢を講説して、之を躬にする能わざるは、之を口頭の聖賢と謂う。吾れ之を聞きて一たび愓然(てきぜん)たり。道学を論弁して、之を体する能わざるは、之を紙上の道学と謂う。吾れ之を聞きて再び愓然たり。〔『言志後録』第77章〕

【意訳】
聖人や賢人の教えを解説や講義をするものの、それを実践躬行できないという人を、口先だけの聖賢という。私はこれを聞いて、大いに自分を戒めた。宋代の儒者達の学問を論じたり弁じたりはするが、それを身に体得することができなければ、そういう学問を紙上の道学という。自分はこれを聞いて、やはり身が引き締まる思いである

【所感】
学んだ知識を披露するだけで、自ら実践しなければ何の意味もない。


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