今日の神坂課長は、新美課長と同行しているようです。
「先日、佐藤部長の御自宅にお見舞いに行ってきました」
「あ、行ったんだ? 元気だっただろう」
「はい、もう会社に行きたいと言ってました」
「顔色も良かったしな。でも、3月一杯はゆっくり休んでもらおうぜ」
「神坂さんがいるから安心だと言っていました」
「本当? 本音は心配していると思うけどね」
「本当ですよ。神坂さんがしっかりやってくれていることがうれしそうでしたよ」
「なんだか照れるな」
「それにしても、不思議に思うんですけどね。佐藤部長と会話をするとなぜか心が落ち着いて、その後は自分の考えが理路整然とするんですよね」
「ああ、それはわかる。俺も同じ感覚になることがよくあるよ」
「なぜなのかなぁ?」
「一斎先生の『言志四録』のなかに、『静坐すること数刻の後、人に接するに、自ら言語の叙有るを覚ゆ』って言葉がある。意味は、静坐をすると、その後人と接する際に理路整然とする、ということらしい」
「佐藤部長と話をするのは、静坐をするのと同じ効能があるということですか?」
「静坐って、自らを深く見つめなおすためにやるものだろう。佐藤部長と会話するときも、いつの間にか、自分の心と会話しているような感覚にならないか?」
「ああ、たしかにそうですね!」
「会話をしながら、相手に深く考えさせるというマネジメントの技術は、俺にはまだないよ。やっぱり佐藤部長には早く戻ってきてもらわないとな」
「はい。安心して戻ってきてもらえるように、3月はなんとしても結果を出しましょうね!」
ひとりごと
自分の心と深く会話をする時間を作るべきだと一斎先生は言います。
そうすることで、対人折衝も変わってくるのだと。
静坐というのは手段ですので、静坐にこだわることなく、日に一度、いやせめて週に一度はそういう時間を作ってみる必要があるのかも知れません。
【原文】
静坐すること数刻の後、人に接するに、自ら言語の叙有るを覚ゆ。〔『言志後録』第113章〕
【意訳】
静坐してから数時間の後、人に接すると、自分の言葉が筋道の立ったものになっていることに気がつく。
【ビジネス的解釈】