今日の神坂課長は、N鉄道病院の長谷川先生、佐藤部長と3人でS庭園に桜を観にやってきたようです。

「今年は佐藤さんと梅を愛でることができなかったから、桜だけはどうしても観に来たかったんだ」

「長谷川先生、ありがたいお言葉、恐縮です」

「部長、長谷川先生は本当に寂しそうでしたよ。残念ながら、花を愛でるというような風流なことになると私に代理は務まらないようで・・・」

「そんなことは言ってないじゃない。あ、でも顔に書いてあったかな。(笑)」

「ここは、いろいろな桜を鑑賞できるのがいいですね。枝垂れ桜に山桜、もちろんソメイヨシノもあります。皆それぞれに味わいがあって、心を癒してくれます」

「日本人は風流ですよね、お花見にお月見と季節ごとに自然を楽しむわけですから」

「神坂君は桜のどこを鑑賞しているのかな?」

「先生、どこって、それはこの美しい花びらじゃないんですか?」

「もちろん、それで良いんだけどね。私は1年のうちで、ほんとうに短い期間しか花を咲かせることができない、そのはかなさを思うと心を打たれるんだよね」

「1年のうちで満開になるのは、ほんの数日です。それ以外の期間はまさにこの瞬間のために準備をしているとも見ることができますね」

「参りました。やっぱり私には佐藤部長の代理は務まりません。そんなこと考えたこともなかったですから」

「神坂君、スポーツ選手だって同じじゃないのかな? オリンピックは4年に一度しかない。その一瞬のために残りのすべての時間を費やすんだからね」

「ああ、なるほど。では、お月見のときは何を観るのですか?」

「ははは。別に何を観てもいいんだよ。私の場合は、月が発する気を味わう感じかな。月は光り輝いているように見えるけど、実は自分で光を発しているわけではない。しかし、まちがいなく清明な気を発している。それを味わうんだ」

「深いですねぇ。つまり、輝かしい外見に惑わされずに、本質を見る目を養うわけですか?」

「おお、神坂君もなかなか深い見方ができそうじゃないか」

「本当は、一緒に何を食べるか、どんな酒を飲むかが一番重要ではありますが・・・」


ひとりごと

我以外皆我師、という言葉があります。

これは作家の吉川英治氏が小説『宮本武蔵』のなかで、武蔵に語らせた言葉です。

月や花を観賞するときにも、そこから何かを学ぶことができる。

一斎先生はそう言っています。

しかし、いつもそういう見方ばかりしているのもちょっと疲れます。

時には何も考えずに、ただ美しさを鑑賞するのも必要でしょうね。


【原文】
月を看るは、清気を観るなり。円缺(えんけつ)晴翳(せいえい)の間に在らず。花を看るは、生意を観るなり。紅紫香臭の外に存す。〔『言志後録』第140章〕

【意訳】
月を観るということは、月が発する清明の気を見るのである。丸いか欠けているか、輝いているか翳っているかといった形を見るのではない。花を観るということは、花の生きた心を見るのである。紅色か紫色か、良い香りなのか鼻につく臭いなのかといったことは問題外である

【ビジネス的解釈】
モノを見る目を養うには、煌びやかな外見に惑わされることなく、モノの本質を見極めることを意識することだ。


ohanami_fufu