今日の神坂課長は、就業後に佐藤部長と「季節の料理 ちさと」にやって来たようです。

「あら、神坂君。今日はお二人なのね」

「うん、今日はむしろ部長と話がしたくてここに来たの」

「じゃあ、今日はお料理に徹しようかな」

「それで、よろしく!」

「なんか、冷たいわね。この前は相談に乗ってあげたのに!」

ママは厨房に入っていきました。

「神坂君、『全釈漢文大系』を買ったんだってね。凄いじゃない」

「部長が私の眼を開かせてくれたお陰ですよ」

「この勢いじゃ、そのうちに古典の知識も抜かれそうだな」

「ははは。それはないですよ。素頭が違いすぎますから! あ、そういえばこの前、『書経』の前書きを読んでいたら、今残っている『書経』は、かなり後世に書き足されたものが多いらしいですね?」

「古い書物だからね。昔から中国の古典には後世の偽作とされるものも多いみたいだよ」

「なんだか、真剣に読む気が薄れましたよ」

「神坂君、私たちは学者になるわけではないし、歴史の真実を追いかけているわけでもないんだから、そこにこだわる必要はないんじゃないかな」

「そうですね。すべてが嘘というわけでもなさそうだしな」

「私たちは古典を活学して、ビジネスや生活に活かせばいいよね。『書経』は、理想のリーダー
シップについて書かれている本だから、リーダーとしての振る舞いや言葉遣いを正すための指針となれば充分でしょう」

「たしかにそうですね。真偽の程は学者先生にお任せします」

「はい、今日は今が旬のイサキを仕入れました。まずはお刺身でどうぞ!」

「うわー、おいしそう!」

「これは正真正銘のイサキですから御安心を」

「え、イサキにも偽者があるの?」

「偽者というか、○○イサキという名のついたお魚はたくさんあるんだけど、それぞれ結構味が違うの。もちろんおいしいお魚もあるんだけどね」

「へぇー、そうなのか! でも、やっぱり食材に関しては本物を食べたいな」


ひとりごと

中国古典に限らず、古典と名のつく書物には、偽書とされるものもあるようです。

歴史の史実にしても、最近になって覆ったり、新たな説が出たりしています。

しかし、我々が古典を学ぶのは歴史的な事実を突き止めるためではありません。

古典に書かれている内容を活学し、自分自身の仕事や生活に活かすことが目的のはずです。

あまり真偽にこだわる必要はないでしょう。


【原文】
尚書にも亦古今文有り。而して今の伝うる所は、即ち古文の経なること疑う可き無し。宋以降、信疑曹(そう)を分つ。近世閻若璩(えんじゃくきょ)、疏証(そしょう)を著わして、而して毛奇齢之を寃(えん)とす。是なり。凡そ五経の中にて、確言の夥しきこと、此の経に若くは莫し。乃ち妄に之を沙汰するは、翅(ただ)に経を尊ぶの道に非ざるのみならず、而も更に経を非(そし)るの罪有り。〔『言志後録』第231章〕

【意訳】
(『易経』と同じく)『書経』にも古今の文書がある。現在伝わっているのは古文尚書であることは疑いのないところである。宋の時代になって真偽をただす議論が起こり、派閥が生まれた。閻若璩が『古文尚書疏証』を著わして、古文尚書を偽作であるとしたが、毛奇齢は『古文尚書寃詞』を著わしてこれに反論している。五経(詩経・易経・書経・礼記・春秋)のなかで『書経』ほど確言の多い書物はない。したがって『書経』の批評をするという行為は経書を尊ばないというだけでなく、むしろ誹謗するという罪を犯すことになる

【一日一斎物語的解釈】
中国古典などの古い書物には、後世の偽作とされるものも多い。しかし、とくに古典を活学する立場からすれば、真偽の程は大きな問題ではない。書かれている内容で自分を律するものがあれば、素直に実践すればよい。


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