今日の神坂課長は、元同僚西郷さん主催の『論語』の読書会に参加し、そのまま懇親会に出席しているようです。

「サイさん、それにしても、同じ文章に対してよくもあれだけ学者先生によって解釈が違うもんですね!」

「『論語』というのは、非常にシンプルに書かれているからね。たとえば孔子の言葉だけが記載されている章句だと、孔子がどんな場面で誰に対して語った言葉なのかは想像するしかないんだよね」

「なるほど」

「それに文字の意味も時代によって変わるからね。漢代の学者と宋代の学者では文字の解釈ひとつとってもかなり違っているんだよ」

「朱子が宋代の学者さんでしたね?」

「うん。朱子がまとめた『論語集註』というのは、朱子より少し先輩の周濂渓や程明道・伊川兄弟らの解釈をまとめたもので、新注という呼び方をされている」

「それに対して漢代のものは旧注と呼ばれるのですね?」

「そのとおり」

「でも、サイさんの解説を聞いていると、朱子の解釈ってちょっと堅苦しい感じがするんですよね」

「ははは。とくに神坂君のような自由奔放な青年にはね!」

「あ、もう青年ではないと思いますけど・・・」

「そうだったね。たしかに、朱子らの解釈では、孔子は神様のような人で絶対に過ちを犯さない完璧な聖人だと見ようとしているフシがあるね。しかし、素直に『論語』と向き合ってみると、どうも孔子という人は、かなりお茶目で接しやすい人だったんじゃないかと思うんだ」

「サイさんの解釈のお陰で、私も孔子がすごく身近な人になりました」

「そう言ってくれるとうれしいよ。江戸時代は朱子学が主流だったから、その名残で日本においてはどうしても『論語』というと堅苦しい書物で、孔子という人も堅物だと思われてしまっているよね」

「正直、この会に参加する前は私もビビッてましたから」

「ははは。よく参加してくれたよ。幸い今は多くの学者先生が様々な視点で解釈してくれているから、この読書会においては、一人の先生に私淑するというより、なるべく多くの先生方の解釈を集めて、その中から自分の好きな解釈を採ってもらえばいいな、と思っているんだ」

「何が正解というのはないのですね?」

「たとえば、『忠』という字を親に逆らうことだと解釈する先生はいないからね。そういう意味で、私が選んだ先生方の解釈であれば、大きく方向性を間違うようなことはないと確信しているよ」

「サイさん、これからも学ばせてもらいますね!」

「私も一緒に学ぶスタンスだから、これからもよろしくね!」


ひとりごと

小生が主催し、東京・名古屋・大阪で開催している潤身読書会は、この物語で西郷さんが語っているとおり、ひとつの章句に対して30名以上の高名な学者先生の解説を読み込み、その中から興味深い解釈を小生がセレクトしてテキストを作っています。

もちろん漢代の解釈もあれば、宋代の解釈もあり、それらを併記して解説し、参加者の皆さんが自分の仕事や人生に役立つ解釈を採用してもらうというスタンスで開催しています。

毎月一回、各地区で開催していますので、興味のある方はぜひお気軽にご参加ください。(参加を希望される方はコメントにてご連絡を頂ければ、折り返し詳細をお知らせします)


【原文】
学苟(いやしく)も濂・洛に原本せば、訓詁は則ち仮令(たとえ)漢・唐を用うとも亦妨げ無し。試みに之を思え、古今孝字を訓じて親に逆らうと為し、忠字を訓じて君に叛くと為す者無きを。〔『言志後録』第232章〕

【意訳】
学問については仮にも周敦頤(濂渓に居住)、程明道・伊川兄弟(洛陽に居住)を大本とするならば、文字の解釈はたとえ漢代や唐代のものを用いたとしても問題にはならない。古今において「孝」の字を親に逆らうと解釈したり、「忠」の字を君に叛くと解釈する者がいないことを思えば明らかである

【一日一斎物語的解釈】
古典を読む際は、一人の学者に私淑することなく、幅広く多くの学者の解説に目を通して解釈を深めれば、大いに仕事や人生の糧となるであろう。


2016-01-29 01.14.02