今日の神坂課長は大累課長に誘われてランチに出かけたようです。
「実は最近、『呉子』という兵法書を読み始めましてね」
「おお、知ってる。俺が買った『全釈漢文大系』にも『孫子・呉子』として収録されてるよ。しかし、なんでまた兵法書を読み出したんだ?」
「大学の大先輩に勧められましてね。競合他社と戦うために、兵法書で競合戦略を磨けと言われたんです」
「へぇ、凄い先輩がいるんだな」
「神坂さん、『武経七書(ぶけいしちしょ)』って知ってますか?」
「なんだそれ?」
「中国の七大兵法書をそう呼ぶらしいです。『孫子』・『呉子』・『六韜』・『三略』とあと3つは忘れましたけど、その七つだそうです」
「へぇ、お前もいつの間にか勉強しているな。追い越されないように気をつけないとな」
「俺の方こそ、神坂さんが急に走り出したから、急いで追いかけている感じですよ」
「ははは。まさに切磋琢磨ってやつだな」
「ところが、その『武経七書』のうち、『孫子』と『呉子』以外のものは偽書なんだそうです」
「あれ? でも、『六韜』ってたしか家康が愛読したという本だったよな?」
「よく知ってますね。ちなみに藤原鎌足も愛読したそうです」
「じゃあ、昔の偉人は偽書を愛読していたということか?」
「『六韜』・『三略』ともに、歴史上の偉人である太公望の著作だとされているのですが、それは事実ではないようです」
「家康はそれを知ってて読んでいたのかな?」
「当時は太公望の作だと信じていたかも知れませんね。ただ、そうした日本史上の偉大な武人
が愛読するくらいですから、内容は確かなんでしょうね」
「おそらく、それなりの兵法家が書いたものなんだろう。要するに偽書であっても、学ぶことはできるということだな」
「もし偽者でかつ中身が無ければ、歴史の中でとっくに淘汰されているでしょうからね」
「千年近くも生き残って来たわけだから、太公望の作かどうかは別としても、本物の書物だということだな」
「本物の書を読んで、少しでも本物の人物になることを目指しましょう」
「お、おぉ。そ、そうだな・・・」
ひとりごと
『武経七書』とは、上記の4つの書に、『 尉繚子』・『司馬法』・『李衛公問対』を合わせた7つの兵法書を指し、宋代に確立されたようです。
一斎先生がご指摘のように、『孫子』と『呉子』以外は偽書とされていますが、それでも千年近く兵法書として読み継がれてきていることを考えれば、これはもうれっきとした本物と呼べるのではないでしょうか?
誰が書いたかよりも、何が書かれているかを重視するというのは、ある意味で中国らしいと言えなくもありません。
しかし、我々日本人もこうした現実主義を学ぶ必要があるのではないでしょうか?
宋代に武経七書の名を創(はじ)む。孫・呉を除く外、都(すべ)て偽贋(ぎがん)に属す。但だ其の言の取る可きは、必ずしも真贋を問わずして可なるのみ。近世、愈・戚諸著の如きも、亦実得有り。〔『言志後録』第235日〕
【意訳】
宋の時代に「武経七書」が固まった。実際には、『孫子』と『呉子』以外のものは偽書の類に属すものである。ただしそれらの中で有益な言葉があれば、その書の真贋を問わずに採用して実践すべきである。明代の愈大猷(ゆたいゆう)や戚継光(せきけいこう)らの書物についても、実際に有益な点があるものだ。
【一日一斎物語的解釈】
偽書といわれる古典であっても、千年のときを生き延びて来たものにはそれなりの真実がある。書を読む際には、誰が書いたかよりも、何が書かれているかを重視すべきである。