今日の神坂課長は、相原会長と夏競馬に参戦のようです。
「あれ、会長のその万年筆、かなりの年季ものですね」
「ああ、これ? 実は私の父が愛用していたものなの。僕が二十歳のときに父からもらったから、僕だけでも五十年以上使っていることになるね」
「五十年! 凄いですね。いまだに現役なんですね?」
「すごく書きやすいよ。だから競馬の予想の時でもコレ!」
「競馬の予想は赤ペンの方が雰囲気でませんか? もし競馬場で落としたらどうするんですか?」
「大丈夫、常に肌身離さず持っているから、身体を離れればすぐに気づくから。神坂君は、永年愛用しているものはないの?」
「愛用品ですか・・・。どちらかというと新しいモノ好きですからねぇ。ああ、そうだ。冬に来ているステンカラーのコートだけは、新人のときから着用しています」
「おー、すばらしい! 今の時代はまだ使えるのに、モノを買い替えてしまう人が多いよね。もったいないなぁと思ってしまうよ」
「そう言われると私は反省するしかないです。昨日もカミさんと自家用車を6年乗っているからそろそろ買い替えようか、なんて話をしていました」
「たとえば神坂君が車が大好きだというなら、それでも良いんだろうけどね」
「いや、走ればなんでもOKなタイプです。ちなみに走行距離も8万キロくらいです」
「ははは。それならもう少し乗ってあげてもいいかもね?」
「たしかにモノを大切にするという気持ちを持つことも大事ですね。昨日、本田君に昔からのお得意先は大切にしろ、なんて話をしておきながら、自分もモノに関しては簡単に廃棄していたかもなぁ」
「まあ、なんでも捨てるなということでもないけどね。僕は本を棄てられなくてね。妻からは読まない本は捨てろ、って言われ続けている」
「わかります。私はCDです。もう2,000枚くらいあって、なかにはまったく聞いていないCDも多いのですが、やはり捨てられません」
「意外と男ってそういうところあるよね」
「でも、一方で『女房と畳は新しい方が良い』なんてことも言います」
「いやいや、最近は女性の方が強いから、『亭主とお札は新しい方が良い』なんて言葉ができるかもよ!」
ひとりごと
小生も五十年以上生きてきましたが、考えてみると生涯の愛用品はみつかりません。
その割に、本とCDは捨てられず、小生の部屋は倉庫のように本とCDが堆く積まれています。
使えるモノは使う、使わないモノは捨てる。
5Sと断捨離は永遠の課題です。
【原文】
余が左右に聘用(へいよう)の几硯(きけん)諸具、率(おおむ)ね皆五十年前得る所たり。物旧ければ、則ち屏棄(へいき)するに忍びず。因て念(おも)う、「晏子の一狐裘(こきゅう)三十年なるも、亦恐らくは必ずしも倹嗇(けんしょく)に在らざらん」と。〔『言志後録』第238章〕
【意訳】
私が自分の左右において愛用している机や硯その他の道具は、だいたい五十年前に入手したものである。物は古くなると愛着が沸いて棄てることが忍びなくなるものである。そこで思うのだが、「晏平仲が一枚の狐の毛皮を三十年身につけていたというのも、恐らくはそうした理由であって、単にけちだということではないだろう」と。
【一日一斎物語的解釈】
モノを長く愛用することは、吝嗇(けち)とは違う。今の時代こそ、なんでも新しくするのではなく、末永く愛用するモノを持ちたいものだ。