今日の神坂課長は、佐藤部長同行でVIPのドクター数名を訪問し、会社へ戻る車中にいるようです。

「このところいくつか中国古典を読んでいて思うのですが、昔の中国人は優れた人が多いのに、なぜ現代の中国は利己主義でやりたい放題の国になってしまったのでしょうね?」

「ははは。ある中国古典の先生はこう言ってるよ。『中国の古典を読んで素晴らしい国だと思って中国を訪問したら、あまりのギャップに愕然とするだろう』って」

「最近はわざわざ中国に行かなくても、日本にやってくる中国人のマナーを見れば、それは容易に察しがつきますよ」

「そうだね。しかしその言葉の意味するところは、昔も今も中国自体は変わっていないということなんだ」

「え、どういうことですか?」

「つまり、孔子の頃の中国もやっぱり今と同じような人々が多くを占めていた。しかし、それではいけないと憂う少数派がいた。それが孔子や孟子やその他歴史に名を残している思想家たちなんだ」

「なるほど。たしかにそうですよね。もし、みんなが君子だったら、『論語』を読んでも当たり前じゃないかと思うだけですね」

「そのとおり」

「そう考えると、日本人も中国人ほどではないにしろ、皆が君子かといえばそうではない。だから、今まで中国古典が読み継がれてきたんですね」

「いつの時代にも正論を堂々と主張できる人は少数派なんだろう。日本のことを考えてみても、すぐれた思想家というのは、どの時代にも少数しかいないでしょう?」

「そうですね」

「しかし我々は、これまでの歴史の中に生まれた優れた思想家の著作を読むことができる。もちろん時代背景を把握することは重要だけど、とにかくそうした優れた著作を読み、その著者をまるで自分の先生か学友のように感じることができたら、それは素晴らしいことだよね」

「本当ですね。そういう古典の読み方をしたいな」

「時には優しく背中を押してもらい、時には厳しく叱ってもらおうよ」

「はい。あ、部長。ちょっと書店に寄っていきませんか?」


ひとりごと

上記にあげたある学者の言葉というのは、中国古典の研究者である守屋洋先生の言葉です。

ただし、どの著作に書かれていたかがわからなくなってしまったため、言葉を忠実に再現できませんので、ある学者とさせていただきました。

ニュアンスは上記のような趣旨でした。

さて、この守屋先生の言葉はそのとおりで、やはり昔からかの国は利己主義の国で在り続けているのでしょう。

それを良しとしないまっとうな思想家が国を憂いて書き上げた作品が、いま中国古典として読まれているのです。

つまり、時代背景やお国の事情はどうあれ、多くの古典には、人間のあり方の理想が書かれています。

我々は真摯にそれを学び、実践につなげていけば良いのではないでしょうか?


【原文】
濂・洛復古の学は、実に孔孟の宗と為す。之を承くる者、紫陽・金谿及び張・呂なり。異同有りと雖も、而も其の実は皆純全たる道学にして、決して俗儒の流に非ず。元に於いては則ち静修・魯参(斎?)、明には則ち崇仁・河東・余姚・増城、是れ其の選なり。亦各々異なる有りと雖も、皆一代の賢儒にして、其の濂・洛に遡洄(そかい)するは則ち一なり。上下千載、落落として唯だ此の数君子有るのみ。吾取りて之を尚友し、心に楽しむ。〔『言志後録』第255章〕

【訳文】
周敦頤(とんい)と程明道・程伊川兄弟らによる儒学の新しい解釈は、孔孟の宗旨を伝えたものといえる。それを受け継いだのは朱熹や陸九淵および張南軒・呂祖謙であった。これらの学問の間には相違点もあるが、みな純粋に儒学に新たな息吹を与えており、いわゆる俗儒ではない。元代においては、劉因と許衡、明代においては、呉康斎・薛敬軒・王陽明・湛甘泉などが優れている。彼らも相違点はあれども、周敦頤や程兄弟を淵源としている点では一致している。千年もの間、こうした学者はまばらで、わずかに数人の君子がいるのみである。私はこれらの古人を友として、心に楽しみを得ている

【所感】
いつの時代にも優れた学者というのは、それほど多くは存在しない。しかし、長い年月を遡ってみれば、多くの偉人を数えることができ、その著作も今に残っている。そうした恩恵を得るためにも、古典を学び、その著者を尚友として愉しく学びたいものだ。


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