中野みどりは小説家のたまごである。

恩師からもらった『鏡草』と旅先で知り合った佐藤という真摯からもらった『翁問答』を読み込みながら、新しい小説のテーマを模索していた。

「藤樹先生は漢文の白文で『大学』を100回読んで理解したんだよね。私もこの2冊を100回づつ読んでみよう」

みどりはそう決意して、約2ヶ月を要して2冊を100回ずつ読み込んだ。

「立花先生は、福善禍淫(ふくぜんかいん)と言っていたわね。善いことをすれば、心には楽という福が、悪いことをすれば、心には苦という禍がもたらされる、という意味だと。これをそのままテーマにしてみようかな」

「善いことをするには、心を常に誠にしなければいけない、と藤樹先生は言っていたな。誠というのは、自分に嘘をつかないこと、他人を欺かないことだと立花先生も言っていた」

「自分に嘘をつかないって意外と難しいな。私が藤樹先生の本を100回読んだというのも、証明できるものは何もない。本当は50回でも100回読んだと言えてしまうもんな」

「でも、そういう嘘をつけば、必ずあとで禍が降りかかるのよね。それは、もしかしたら私自身ではなくて、私の子孫に及ぶかもしれない。とても怖いわ」

「そうか! 次々に不運に見舞われる女性を主人公に物語を書いてみようかな。人生に失望して死を決意したとき、偶然藤樹先生の本に巡り会い、そこで自分の先祖について調査をしてみようと思う」

「すると意外な事実がわかってくる。そして、その事実と向き合ううちに、いつの間にか主人公の運勢も好転していく」

「主人公の名前はみどりにしよう。そしてみどりのそばでいつもみどりを助けてくれる彼氏は佐藤君。みどりの恩師は中江先生ね」

みどりはこの夏休みにもう一度、滋賀県高島市安曇川町上小川を訪れてみることにした。

「あ、空いてますか? それでは18日から2泊でお願いします」

みどりは、上小川にある民宿を予約して、旅の準備を始めた。

荷物は着替えと中江藤樹の2冊の本、原稿用紙と筆記具のみ。

小さなキャリーバッグにすべて収めて、少し早く眠ることにした。

「なんだか面白いストーリーが書けそうな気がする。ワクワクするわ」

すぐに眠りに落ちたみどりは、不思議な夢をみた。

(中野みどりの物語については、第1582日、1588日、1589日をご参照ください)


ひとりごと

誠という概念は、『論語』には登場せず、孔子の孫の子思が書いたとされる『中庸』以降に多く登場する概念です。

いろいろな捉え方がありますが、小生は、自分にも他人にも嘘をつかないこと、と理解しています。

大切なのは自分との約束を守ることでしょう。

自分との約束を守れない人は、他人との約束を守れません。

つまり、誠とは自分を偽らないこと、と考えておけばよいのかもしれません。

そして、それを貫くことができれば、人生の楽しみを享受できるのだと一斎先生は教えてくれています。


【原文】
「天下の物、理有らざる莫し」。この理即ち人心の霊なり。学者は当に先ず我れに在るの万物を窮むべし。孟子曰く、「万物皆我れに備わる。身に反りみて誠なれば、楽焉(これ)より大なるは莫し」と。即ち是(これ)なり。〔『言志晩録』第14章〕

【意訳】
『大学章句』五章の朱子補伝に「天下の物、理有らざる莫し」とある。ここでいう理とは人の心の霊性である。学問をする者はまず自分の中に備わっている万物の理を窮めるべきである。孟子は、「万物の道理は総て自分の本性に備わっている。それだから、自分自身に反省してみて、自分の本性に具わっている道理が、皆誠実であるならば、これほど大きい楽しみはない」と言っている。まさにこのことを言っているのだ

【一日一斎物語的解釈】
自分の本性に備わっている心の霊性は万物に備わる宇宙の摂理と一体である。心を磨き、心の誠に忠実であれば、万物と一体となる楽しみを享受できる。


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