今日の神坂課長は元同僚西郷さんの主査する『論語』の読書会に参加しています。
「サイさん、このテキストは30冊以上の『論語』の解説書からポイントを抜き出して作っているんですよね?」
「うん。私は定年して今は暇だからね!」
「いや、私は暇でもこんな資料は絶対に作れないですよ!」
「そう言ってもらえるとうれしいよ」
「こういう風に一つの章句について、様々な学者先生の解説を読んでいると、いつの間にか言葉ではなく映像が浮かんでくる気がしますね」
「おお、神坂君、さすがだね。実は、私も同じなんだよ。最初のころは一字一句をかみ締めるように読んでいたんだけど、最近は諸先生の解説を読んでいると孔子と会話をしているような気分になってきたんだ」
「孔子と会話ですか?」
「うん、もちろん会話といっても、語り合うというのではなく、孔子の心と私の心が触れ合っているような感覚だけどね。こんなことを言ったら、多くの学者先生から『うぬぼれるな』ってお叱りを受けそうだけど」
「そんなことないですよ。かえって学者さんというのは、文字にこだわり過ぎるところがありますよね。文字ではなく、孔子の心を読むことが大事な気がします」
「ほぉ、神坂君。君はいつの間にそんなに成長したんだ!」
「サイさん、やめてください。相変わらず部下にはバカにされていますし、ムカッとくると怒鳴りつけています。あの頃の私と大差ないですから」
「そんなことはないと思うよ。君は確実に成長しているよ。さて皆さん、今、神坂君が言ったことは非常に重要ですね。読書というのは、そこに書かれている文字や出来事を読むというより、著者の心を読むところに意味があるように思います。特に経書などの古典はそういう読み方をすべきなのではないでしょうか?」
「みなさん、そういうことですから、しっかりと孔子の心を読み取りましょうね」
「神坂さん、いつから先生になったのよ?」
「あっ、これは出しゃばりすぎました!」
参加者一同、爆笑の渦に巻き込まれています。
ひとりごと
『論語』という本は、非常に簡素な表現で書かれているため、一つの章句をめぐっても学者先生によって解釈が大きく違うということが多々あります。
そしていくつかの解説書を読んでいると、そんな細かい表現にこだわる必要があるの?と思ってしまうこともあります。
学者先生は、それが仕事ですから、表現の微妙な違いにも目を光らせ、深く研究する必要があるのでしょうが、我々のように古典を活学しようと考える者からすれば、大きな問題ではないはずです。
文字そのものより、孔子の心を読むつもりで『論語』を読むと、とても愉しく、多くの学びを得ることができます。
【原文】
此の学は伝の伝有り。不伝の伝有り。堯は是を以て之を舜に伝え、舜は是を以て之を禹に伝うる如きは、則ち伝の伝なり。禹は是を以て之を湯に伝え、湯は是を以て之を文・武・周公に伝え、文・武・周公は之を孔子に伝えしは、則ち不伝の伝なり。不伝の伝は心に在りて、言に在らず。濂渓・明道は蓋し伝を百世の下に接せり。漢儒云う所の伝の如きは、則ち訓詁のみ。豈に之を伝と謂うに足らんや。〔『言志晩録』第23条〕
【意訳】
聖人の学には伝の伝と不伝の伝とがある。かつて堯が舜に伝え、舜が禹に伝えたのは伝の伝である。禹から殷の湯王に伝わり、湯王から周の文王・武王・周公へと伝わり、それがさらに孔子へと伝わったのは不伝の伝である。不伝の伝は心を通じて伝わるものであって、言葉を介さない。宋の周濂渓や程明道は思うに百世を隔てて孔子の心に接したものであろう。漢代の儒者がいう伝とは、いわゆる訓詁の学であって、字句に拘泥するのみで、これを伝と呼ぶことはできない。
【一日一斎物語的解釈】
学問には、文字から学ぶ学び方と著者(聖人)の心と自分の心を通わせる学び方がある。書籍を活学するためには、後者のやり方を身につけるべきであろう。

