今日の神坂課長は、総務課の大竹課長と一杯やっているようです。

「タケさん、最近いろいろ勉強しているとさ、これは俺のオリジナルのアイデアだと思っていたことが、実はとっくの昔に本に書かれていたということに気づかされるんだよね」

「そりゃ、そうでしょ。神坂君ごときが考えることに、今までに誰も気づかなかった、なんてことがあるわけないじゃない」

「ま、まあそうだけどさ。そういう言い方をされるとちょっとムカつくな」

「すぐに腹を立てるのは損だよ。短気は損気っていうでしょ」

「ちぇっ、なんか微妙に上から目線なのが癪に障るな」

「あのね、神坂君。俺は君より先輩だからな!」

「精神年齢は俺より低いと思うけどね」

「わかってないねぇ。君のレベルに合わせてあげてるのに!」

「よく言うよ! でも、タケさんの言うとおりだよな。俺が考えたことで、過去二千五百年間にこの世に生きた人類が誰も気づかないことなんてないんだろうな」

「そうだよ。でもね、同じ真理に気づけたことが神坂君の成長じゃないの」

「あー、なるほど。タケさん、良いことも言うんだね。そうだな、実践をして身につけたことで、うまくいくことっていうのは、真理なんだろうな」

「大自然の摂理とも言うね。大事なのは本を読んで気づいたものは、本物ではないということ。神坂君のように実践から導き出したものが本当の自分の力になるんだよ」

「そうだよね。ただ、俺の良くないところは、自分の意見を正論だと思って、相手をなんとか説き伏せようとしてしまうところだろうな」

「まったく客観的な正論なんて、そうそうないでしょう。みんな、自分にとってメリットがあることを正論だと思いたがる。しかし、そういうエセ正論は、他人からしたら異論でしかないんだよ。他人には他人の正論があるってことだね」

「うん。どちらが正しいかではなく、相手はそう考えるのか?と気づくことが大事なんだな」

「そして自分とは違う意見に耳を傾けてみる。そうすると、自分が気づいていなかった別の真理に気づくことができるんだよ」

「タケさん! なんか今日のタケさんは別人だな。どうしちゃったの?」

「実はさ。昨日、友人たちと実践人の家(森信三先生が晩年生活をした家を記念館として保存した建物)に行ってきたんだ。で、モリゾーちゃんが座っていたという場所に座っていたら、心が洗われるような感覚があってね。もしかしたら俺、何かを悟ったのかもしれない!」

「い、いや、悟った人は『モリゾーちゃん』なんて言わないと思うけど・・・」


ひとりごと

小生も長年のマネジメントで体得した理論のようなものが、実は自分のオリジナルではないことに気づくという経験を何度もしています。

考えてみれば当然のことでしょうね。

大事なことは、オリジナルかどうかより大自然の摂理に適う理論かどうかなのかも知れません。

これからも実践から導き出された真理に出会える、そんな生き方をしていきます!


【原文】
周子の主静とは、心の本体を守るを謂う。図説の自註に「無欲なるが故に静なり」と。程伯子此(これ)に因って、天理・人欲の説有り。叔子の持敬の工夫も亦此に在り。朱・陸以下、各々力を得る処有りと雖も、而も畢竟此の範囲を出でず。意(おも)わざりき、明儒に至り、朱・陸黨(りくとう)を分ちて敵讐の如くならんとは、何を以て然るか。今の学者、宜しく平心を以て之を待ち、其の力を得る処を取るべくして可なり。〔『言志晩録』第24条〕

【意訳】
周濂渓の「静を主とする」ということは、心の本体ともいえる本然の性を守ることをいっている。周子は『太極図説』の自註に「無欲なる故に静なり」と述べている。程明道はこの考え方をベースにして、天理と人欲を説いた。弟の程伊川が説いた居敬と窮理の工夫も元は周濂渓の説を下敷きにしている。南宋の朱子や陸象山らの儒者が各々力をつけておるが、結局のところ周子の学説の範囲内にとどまっている。ところが、明代の儒者が朱子派と陸子派とに分れて敵同士のように論争するに至ったのは、何故だろうか。今の学者は虚心坦懐に各々の長所を採ればそれでよい

【一日一斎物語的解釈】
自分のアイデアをオリジナルだと思わないことだ。善につながるアイデアは、すべて宇宙の摂理にしたがっており、オリジナルだと思っている考えは、学びや経験によって、その摂理に気づいたに過ぎないのだ。したがって、意見の違いを争うのではなく、相手のアイデアの長所を採用するという意識をもつことで、人間関係は円滑になるのだ。


実践人の家