今日の神坂課長は、大累課長と一緒に『論語』の読書会に参加した後、夕方から立ち飲み屋で一杯やっているようです。

「それにしても、同じ章句なのに、学者先生によってあんなに解釈が違うものなんですね?」

「『論語』に限らないだろうけど、特に『論語』は二千五百年も前に書かれていて、なおかつ一章づつの文字数が少ないからな。いろいろな解釈が可能なんだろうな」

「逆にそれが『論語』に幅を持たせているのかもしれないですね」

「そうサイさんも言っていた。とくに漢代にまとめられた古註と宋代にまとめられた新註では、大きく解釈が違うもんな」

「私はちょっと朱子の解釈なんかは、孔子を神様として祭り上げ過ぎているように感じてしまいますね」

「それはあるよな。本当の孔子は、もっとお茶目で温かみのある爺さんだったと思うんだよ。俺もそんなジジイを目指したいよ」

「無理でしょう。神坂さんは人間力が低すぎますからね」

「やかましいわ! 孔子が、心の思うままに行動しても、決して規範を逸脱することがなくなったのは七十の頃だぞ。まだ三十年近くある。俺が七十歳になる頃には、周りにたくさんの若者が集まってくるようになるさ」

「さすがは楽天家だ!」

「いずれにしてもだ。俺たちは『論語』の先生になるわけでもないし、孔子が本当は何を言いたかったのかなんてわかるはずもない。だから、自由に解釈しても良いんだよ」

「それサイさんが言ってたことそのままじゃないですか!」

「う、うるさいなぁ。孔子が何歳で『易』を学んだかなんてどうでもいいんだ。『易』を学んで、自分の人生や仕事に活かすのか活かさないのか、そこが大事なんだよな」

「そうでしょうね。それこそ知識を暗記するだけでは何の意味もないですもんね。とにかく、学んだことを実践して、またそこから学ぶということを繰り返すしかないですね」

「そうだよ。今日の章句にあったように、俺は社内の北極星になるぞ! お前はその北極星に頭を垂れる僕(しもべ)だな」

「あんた、本当に今日『論語』を学んだの?」


ひとりごと

『論語』の古註と新註では、解釈が大きく違う章句があります。

これを、どちらが正しいかと考えるのは学者先生にお任せしておけばよいでしょう。

ビジネスや人生に活学するためには、自分や世の中にとってプラスとなる解釈を採ればよいはずです。


【原文】
博士の家は古来漢唐の注疏(ちゅうそ)を遵用(じゅんよう)す。惺窩先生に至りて、始めて宋賢復古の学を講ず。神祖嘗て深く之を悦び、其の門人林羅山を挙ぐ。羅山は師伝を承継して、宋賢諸家を折中し、其の説は漢唐と殊に異なり。故に称して宋学と曰うのみ。闇斎の徒に至りては、則ち拘泥すること甚だしきに過ぎ、惺窩・羅山と稍同じからず。〔『言志晩録』第29条〕

【意訳】
博士と呼ばれる学者の家系では、代々漢や唐の時代の古註を遵奉して用いてきた。藤原惺窩先生になって、はじめて宋の時代の儒者による復古の学問を講じるようになった。徳川家康公はこれを大変お喜びになって、その門下生である林羅山を登用した。羅山は師の伝えを継承し、宋儒諸家の説を折衷し、その説は漢や唐の学者の説とは異なっていた。これを称して宋学というようになった。山崎闇斎らに至っては、そこに拘り過ぎて、かえって惺窩先生・羅山先生とは異なった説となっている

【一日一斎物語的解釈】
学問を実践するにあたっては、文字や思想にとらわれ過ぎてはいけない。学問は、何(誰)が正しいかを問うよりも、どう実践に活かすがが重要なのだ。


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