今日の神坂課長は、元同僚の西郷さんと昼食を共にしているようです。

「サイさんから頂いた読書会のテキストを時々読み返すのですが、どうも学者先生方は文字にこだわり過ぎていませんか?」

「ほぉ、どういうところからそう思ったの?」

「私が知りたいのは、孔子がその言葉を発した時のシーンなんです。一体誰に対して言った言葉なのか。それが分れば、自然とその言葉の真意が見えてくる気がするんですよ」

「神坂君、さすがだね。その通りだと思うよ。だから、私は『論語』を読むときは、自分でそのシーンを想定して読むようにしている。読書会でも私の想定するシーンをお伝えしているよね」

「はい、そうなんです。サイさんにシーンを想定してもらうことで、その場面が心のスクリーンに描かれるんですよね」

「映像が見えれば、孔子のその時の大義や志のようなものが見えてくるよね?」

「ええ、そうんなんです。でも、学者先生の解説にはそれがほとんどないですよね。あれだけ勉強されている先生方なら、私なんかが適当に想像するよりもはるかに確実に、その言葉を発したシーンを想定できるはずなのに・・・」

「どうしても、学者というのは、言葉を正確に理解しようとする職業病がついてまわるからね。もちろん、そういう研究は大切なんだけれども、吾々のように実践で活学するために古典を読む者にとっては、それほど重要でない場合もあるね」

「朱子なんかは、孔子を神様として絶対視している感じがありますね。でも、サイさんと一緒に『論語』を読んでいると、私にとっての孔子は、お茶目で人懐こくて、感情の起伏の激しい人間味あふれるオヤジなん
です」

「うれしいね。わたしの孔子観も同じだよ。そういう孔子だからこそ、三千人ものお弟子さんがついてきたんだろうね」

「サイさんのお陰で、古典の正しい読み方を学べています。感謝していますよ」

「なんだか、神坂君に褒められると落ち着かないなぁ。どちらかというと、いつも食って掛かってきたのがぼくの神坂観だからねぇ」

「サイさん!」


ひとりごと

『論語』の各章句は概ね、「子曰く」で始まります。

いきなり、孔子はこう語ったと始まるのです。

したがって『論語』には、孔子がいつ、だれに、どんな目的で、その言葉を発したのかが書かれていません。

その言葉は、弟子に向けた言葉なのか? それとも、役人に向けた言葉なのか? それが見えると、自然と孔子の言葉の真意が汲み取れるのです。

小生が主査する潤身読書会では、なるべく小生が想定するシーンをお伝えして、参加者の皆さまが、言葉の裏にある孔子の想いや大義、志を垣間見れるように意識しています。

しかし、つたない小生の想定するシーンより、本当は『論語』の解説書を書かれた先生方にシーンを想定して頂く方が、はるかに間違いがない気がします。

すこし勿体ないなと思いながら、解説書を読み、テキストをつくっています。


【原文】
学人徒に訓註の朱子を是非して、道義の朱子を知らず。言語の陸子を是非して、心術の陸子を知らず。道義と心術とは、途(みち)に両岐無し。〔『言志晩録』第35条〕

【意訳】
世間の学者たちは、やみくもに朱子の訓詁註釈的な面の是非ばかりに終始して、道義・道徳面の朱子の論説を理解しない。また陸象山の言語の末節ばかりに注目し、心・精神面の論説を理解しない。道義・道徳と心・精神とは、一本の道なのだ

【一日一斎物語的解釈】
本、とくに経書を読む際は、文字にこだわり過ぎてはいけない。その言葉の奥にある著者の大義や志を理解することに努めるべきである。


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