今日の神坂課長は、佐藤部長と一緒に「季節の料理 ちさと」で晩酌をしているようです。

「最近、安田登さんという人の『論語』の本を読んだですけどね」

「ああ、能楽師の人だよね。最近、よく『論語』の本を書いているよね」

「はい。漢字に焦点を当てて、『この字は孔子の時代にはなかったから、本当の解釈は〇〇だ』みたいなことを書かれているんです。すごく面白いんですけどね」

「なにか納得がいかないことがあるの?」

「ええ。たとえば、あの有名な『四十にして惑わず』という言葉がありますよね」

「もしかしたら『論語』で一番有名な言葉かも知れないね」

「そうですよね。安田さんは、漢字の歴史を調べて、孔子の時代には『惑』という字はなかったと断定しています。そして、それに近い字として『或』と言ったのではないか、としているんです」

「へぇ、面白いね。その意味は?」

「『或』は『区切る』という意味があるそうで、だから孔子は、『四十にして区切らず』、つまり物事を限定するな、と言ったと結論づけています」

「面白い解釈だね」

「そうなんです、面白いんです。でも、何か肚落ちしないんです。『四十にして限定するな、と言った後に、突然『五十にして天命を知る』というのは、つながりが悪くないですか?」

「たしかにね」

「安田さんの解釈が正しいのかも知れないけれど、私は字の意味や真実はどうかということより、『四十代には、小さなことに一々迷わなくなった』という孔子の生き方に共感を覚えるんです」

「なるほどね」

「古典の解釈って、こう読むべきだ、という感じで読むのではなく、自分はこう感じたからこうしよう、という読み方をする方が良いと思うんです」

「私はそれで良いと思うよ」

「はーい、お待たせしました。秋のおさかなといえば?」

「おー、サンマ?」

「神坂勇、42歳。サンマとくれば、迷わず熱燗をお願いします!」


ひとりごと

潤身読書会という『論語』の読書会を毎月一回5年以上続けてきた小生としては、多くの学者先生が異なった解釈をするのが『論語』であるなら、その解釈はある程度自由で良いのだと開き直れるようになりました。

もちろん、安田登さんの解釈はとても参考になり、本も数冊購入していますので、安田さんを否定するつもりはありません。

安田さんの解釈が面白いなと思えば、それを採用して実践すれば良いと思っています。

なにしろ度量が広く、どんな人間の悩みにも答えてくれるのが『論語』の一番の素晴らしさなのです。


【原文】
漢儒訓詁の伝は、宋賢心学の伝と、地頭同じからず。況んや清人考処の一派に於いてをや。真に是れ漢儒の與タイなり。諸を宋賢の為す所にクラぶるに、夐焉(けんえん)として同じからず。我が党は渠(かれ)の窠臼(かきゅう)に堕つる勿くば可なり。(與たいの「たい」及びくらべるという漢字はワープロ変換できず)〔『言志晩録』第64条〕

【意訳】
漢・唐の時代の儒者による字句に拘った経書の解釈と、宋・明時代の儒者による性理的な経書の解釈とは、その立脚するところが異なっている。まして清の時代の考証学派においては、まったく異なったものであって、彼らはまるで漢・唐の儒者の奴隷のようなものである。彼らを宋・明の儒者と比較すれば、はるかにかけ離れて異なっている。私と学びを共にする者たちが、彼らと同じような過ちを犯すことがなければ良いのだが

【一日一斎物語的解釈】
古典を学ぶときは、字句の意味や出来事の真偽に拘泥することなく、心理を読み解くべきである。


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