今日の神坂課長は、喫茶コーナーで大累課長と雑談中のようです。
「そういえば、お前の名前は誠だったよな。最近の若い子には、誠君はいなくなったよな」
「そういう神坂さんも勇でしょ。勇君もいないですよ!」
「たしかにな。佐藤部長は仁(ひとし)さん、タケさんは孝(たかし)、新美は譲(ゆずる)だろ。こういう徳目を表す一字の漢字を名前にするというのは昭和までなのかな?」
「そうかも知れませんね。でも、ウチの雑賀は学(まなぶ)ですよ。何を学んでるんだか知りませんが」
「ははは。あいつもそれなりには成長しているんじゃないか。そういえば、ウチの善久も敬(けい)って名前だ。あいつの親御さんはたしか公務員だったな」
「神坂さんの息子さんは、礼(れい)君と楽(がく)君でしたよね。昭和を踏襲しているじゃないですか」
「ああ、でもあれば俺の親父がつけた名前だからな。俺はもっとキラキラネームをつけようと思っていたんだけど・・・」
「そうしなくて良かったですね」
「うん、今思うと、良い名前だと思う」
「不思議に名前って、自分のキャラクターを決めているところがありますよね?」
「そうか? 『誠』というのは、他人にも自分にも嘘をつかないという意味だ。お前なんか嘘偽りの人生じゃないか!」
「勘弁してくださいよ。こう見えても俺は嘘をつくのが大嫌いなんです。だから、神坂さんがアホなことを言うと、ついストレートに文句を言ってしまうんです」
「ふざけるな! お前には俺に対する『敬』の気持ちが足りないんだよ! 一斎先生は、『誠』と『敬』とい徳目を身につける際の工夫はひとつだ、と言っているんだぞ」
「俺、意外と神坂さんを尊敬してますよ」
「意外とは余計だ!」
「勇って名前だって、神坂さんのキャラを見事に表しているじゃないですか」
「そうかな?」
「そうですよ。神坂さんの場合は、匹夫の勇の方でしょうけどね」
「ゴン」
「痛ぇ、そうやってすぐに暴力に訴えるのが、匹夫の勇なんだよ!!」
「やかましい。お前の誠はどこにあるんだ。親も泣いてるぞ」
「とうことは、お互いに名前と反対のキャラになっているってことですかね?」
「うーん、というか、名前のような人物を目指せってことだろうな」
「なるほど」
ひとりごと
人を敬する気持ちと、自分を偽らないということは不可分のものだ、と一斎先生は言います。
たしかに自分に正直になると、他人の自分より優れた点が見えてきます。
ところが、自分に驕りがあると、他人の自分より劣ったところだけが見えます。
自分の誠を強く意識して日々を過ごしたいものです。
ところで、小生の名前は裕一と言います。
一は長男ということで、置いておくとして、「裕」という文字に秘められたメッセージは何なのでしょうか?
これは祖父がつけてくれた名前です。
あらためて、よくよく見つめ直してみる必要がありそうです。
【原文】
「其の背(はい)に艮(とどま)り、其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず」とは、敬以て誠を存するなり。「震は百里を驚かす。匕鬯(ひちょう)を喪わず」とは、誠以て敬を行なうなり。震艮(しんこん)正倒して、工夫は一に帰す。〔『言志晩録』第80条〕
【意訳】
『易経』艮為山(ごんいさん)の卦に、「その背に艮(とど)まりてその身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。咎なし」(意味:背(見ざる所)に止まれば、欲心に乱されることが無いので、忘我の境地になれる。外に出ても人(外物)のために煩わされることが無い。まったく禍なく安泰である)とあるのは、敬の心をもって誠をその身に存するということである。同じく、震為雷の卦に「震は、亨る。震の来るとき虩虩(げきげき)たり。笑言啞啞(あくあく)たり。震は百里を驚かせども匕鬯(ひちょう)を喪わず」(意味:雷(震の象)鳴が方百里の遠きに及んで驚かすことがあっても、宗廟の祭祀に祭用の匙や香酒を手にする者は、戒慎恐懼してそれを取り落とすことがない)とあるのは、誠の心をもって敬を行うということである。震艮は真逆のものであるが、敬と誠の工夫はひとつに帰するものである。
【一日一斎物語的解釈】
「敬」と「誠」という徳目は、まったく別物のようであるが、実はその修得の工夫においては不可分のものなのだ。