今日の神坂課長は、休日を自宅で過ごしているようです。
「菜穂(なほ:妻の名)、音楽を聴きながらよく本が読めるな」
「なんで? 好きな音楽をかけるほうが気持ちが落ち着いて本が読みやすくならない?」
「俺は無理無理。好きな音楽をかけると歌いたくなる」
「じゃあ、勇(いさむ:神坂課長の名前)は静かな部屋じゃないと本が読めないの?」
「そう。図書館で静かに本を読むなんていいな。でも、近くのおっさんがくしゃみとかするとイラっとする」
「それは精神修養が足りてない証拠だね」
「え、そ、そんなことないだろう」
「都会の喧騒の中でも、心を落ち着けていることができるようじゃないと、良い仕事はできないんじゃない?」
「なんだよ、今日はだいぶ厳しいじゃないか」
「勇は最近よく中国古典とかを読んでいるみたいだから、心が磨かれてきたのかなと思って」
「少しは精神修養も進んだとは思っているんだけどな。でも、言われてみれば、たしかに静かな環境でしか心を落ち着けられないようでは、まだまだ精神修養が足りていないのかもな」
「お、素直に私の意見を受け容れるあたりは、精神修養の成果を感じるな」
「お褒め頂いて光栄です」
リビングで妻の菜穂さんは読書、神坂課長はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるようです。
「あ、地震だ!」
「え? 揺れた? 全然気づかなかった」
「お前の場合は、精神が鍛えられているというより、ただ鈍感なだけじゃないの? いま、相当揺れたぜ」
「本に集中していたから。それにそんなに大きな地震じゃなかったでしょ。ビクビクするなって!」
「お前には適わないな」
「ちゃんと緊急持ち出し用のリュックも準備してあるし、いざとなればそれを持って非難すればいいの」
「恐れ入りました。本から学ぶより、お前から精神の図太さを学んだ方が良さそうだな!」
ひとりごと
「治心の法は須らく至静を至動の中に認得すべし」とは良い言葉ですね。
心を治めるのは、必ずしも静かな場所を必要としない。
むしろ、現代の人間は、喧騒の中で心を治める工夫をしなければいけないのかも知れません。
小生も静かな場所でないと本を読めない質です。
まだまだ心を磨かねばなりません。
【原文】
治心の法は須らく至静を至動の中に認得すべし。呂涇野謂う、「功を用いる必ずしも山林ならず、市朝も亦做し得」と。此の言然り。〔『言志晩録』第85条〕
【意訳】
心を治める方法は、出来る限り静かな心を極めて忙しい中に認めるべきである。明代の儒者・呂涇野は「精神修養の功を積むのは、必ずしも静かな山林に行かずとも、喧噪の街中でもなし得るものだ」と言った。此の言葉はまったくその通りである、。
【一日一斎物語的解釈】
精神の修養は必ずしも静寂の中で積む必要はなく、むしろ喧騒の中で積むべきかもしれない。

